馬越康彦の日記

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聖者への道

聖者の流れに入っておくことはなぜ必要か?たぶん生きている意味とか、人生の意味など分からないであろうから――おそらく人間とはそういう存在なのだから――預流果(よるか)にさえ到達しておけば、最大で七度(*注1)、それも人界か天界という良い境遇だけに生まれ変わって涅槃に入ることができるので、人として生を賜わったのなら聖者の流れに入って生涯を終えたいものである(聖者の流れに入ると、必ず自分が聖者であることがわかる。だから安心していなさい。仏道とは結果を伴う実践である)。
*注1〝深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとえ大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝は〈つどい〉のうちにある。この真理によって幸せであれ。”(ブッダのことば(スッタニパータ) 「岩波文庫」P52 第二 小なる章 一 宝 より)
*第八の生存 仏教の修行につとめた聖者(預流果を得た人)は、たとい死後に生存をくりかえすことがあっても、第七回目の生存までにニルヴァーナを得て、第八回目の生存に至ることはないという



聖者の流れについてはブッダが次のように語っているので、ここにさえ到達できれば、その生涯は無駄にならない。すなわち、

〝大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果)のほうがすぐれている。”(ブッダの真理のことば(ダンマパダ)・感興のことば(ウダーナヴァルガ)「岩波文庫」P35 第13章 世の中 より)


他の人間存在が頻りに権力闘争や女子供、金、財、地位、衣類、良い食事、良い車、良い家、夏涼しく冬暖かな環境をめぐって忙しい日々を送る中、そうした人を尻目に聖者は天界でも羨まれるほどの境遇を約束され、悟りを開くことを目指して、淡々と日常生活を送っておればよい。聖者を傷つける人は大罪に処せられるし、聖者その人は流れに従って生きていれば、テロや凶弾に倒れる可能性もないので、ただこの世のすべてがむなしく移ろうのを感じていればよい。聖者が次に輪廻転生する人界での境遇もまた、保証されている。この莫大な数の生命が六道を業(カルマ)(*注2)の力で輪廻転生し、生存競争の熾烈な戦いに生まれついたり、何十億年も地獄で死んだような時の連続に生まれつくのに比し、聖者が生まれ変わる境遇は保証されている。悟りを開くための境遇にしか生まれつかないからである。聖者には良い境遇が準備されていて、そこへ生まれつく。人類が滅びるようなときには聖者は生まれない。地球が温暖化の影響で、酷い天候が続くようなときにも聖者は生まれない。聖者は悟りを開く環境が整った時代にしか生まれない。最も多くの聖者が生まれた時代は、ブッダの生きた時代である。そのようなときにしか聖者は生まれないようにできているから、どの時代に生まれ変わるだろうかと心を悩ます必要はない。たとえ人類がほろんだとしても、聖者は宇宙が消滅し、再び生成され、もう一度繰り返し人類を生み出す時代を迎えるまで、生を享けることはない(その間、六欲天梵天の世界へ行っている)。だから聖者の流れに入ったら安心しておれ。


注2)業(ごう)とは、仏教の基本的概念で、サンスクリットのकर्मन् (karman) を意訳したもの。業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。釈尊は次のように説いている。


比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった。
比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。

— 『増支部経典』 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ


ではどうすれば聖者の流れに入れるかだが、まず人を傷つけたり、だましたり、蹴落としたり、生き物をむやみに殺したり、罪を犯してはならない。私は社会的には忘れられた存在である。人を裏切ったり、蹴落としたり、だましたことがない分、いわゆる「いい地位」に就いたり、社会を動かすような存在にはなれないまま51年が経過した。そしてこのまま芽が出ずに一生が終わるのだろうと思っていたら、51年目にまぶしい光に包まれて、聖者の流れに入った。無我を体験して預流果に入ったことを確認した(*注3)。さらに無我を2度体験し、不還果に入った。正確には「無常」を3度体験しなければいけない。僕は「無常」は2度だけだ。

 *注3 禅定は九段階 | 日本テーラワーダ仏教協会


同じ人生、同じ人間なのだから、楽しんだ者が勝ちだという考え方をする人がいる。その人たちの楽しみって何だろうなって考えると、結構、眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)という六根を満足させることに終始していることがある。それしか楽しみがないのだったら、「あれもやりたい、これもやりたい」といって、「あれはやった、これはやった」と数えあげて納得するのもわかる気がするが、残念ながら人間の楽しみは目や舌や手触りや心を満足させても、その程度の次元では終わらない。聖者の流れに入ると、二度無我を体験すると一来果、三度で不還果、四度以上で阿羅漢果になり、双六の上りが近くなる。眼耳鼻舌身意の満足などはるかに超えて、梵天界で遊ぶようになると、この世への執着から解放されてしまう。この世界で遊ぶようになると、SNS(例えば、FACEBOOK)で、あそこ行ってきた、これ食べた、あれ飲んだ、あそこの店でこんなもの売っていたなどと報告したい欲求がなくなる。上がりが近づくと、楽しみ方が全く異なってくるのだ。とにかく六根をコントロールしなければ、果報はない。


http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-12.html



聖者への道を説く私にとって、次のブッダの言葉は最も自戒を要するものだ。すなわち、
〝実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、――かれこそ実に最下の賤しい人である。”(岩波文庫 ブッダのことば(スッタニパータ) 第一 蛇の章 135 P35より)
輪廻転生を私が信じるのは、ブッダ釈尊)が自分を含めて、他の人の過去世を見ることができたからである。ブッダは決して嘘をつかない。そのブッダが輪廻転生を支持するのなら――私はまだ自分の過去世を見ることができないが――それはあるのだ。彼ほど信頼できる人はいないし、いなかったし、これから先もいない。

過去世を見る力(神通力)についてはこちらを参照
沙門果経 - Wikipedia

六神通 - Wikipedia

考えてなろうとしていたら、聖者にはなれない。実践しないことにはどうにもならぬ。
私は自然に聖者の流れに入っていた。身口意(しんくい)があらたまっていて、清浄行をなす日々を送り始めていた。残すところ幾ばくも無い命であるが、「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」とさとっている。
〝「それでは、導師よ、私どもはこれでおいとまいたしましょう。私どもには仕事も多く、しなければならぬことがたくさんあります」と。
「では、大王よ、御意のままになさってください」と。
そこで、マガダ国の王でありヴィデーヒー妃の子であるアジャーターサットゥは、世尊が説かれたことに歓喜し、随喜して、座から立ち、世尊に礼拝し、右回りをして退出した。
さて、世尊は、マガダ国の王でありヴィデーヒー妃の子であるアジャーターサットゥが退出してまもなく、比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ、かの王は掘り出されているのです。比丘たちよ、かの王は破壊されています。
比丘たちよ、もし、かの王が正しい法を護る王である父君を殺さなかったならば、この座でそのまま、塵を離れ、垢の消えた法の眼が生じたにちがいありません」と。
このように世尊は言われた。
かれら比丘は、喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。”(沙門果経より抜粋)