馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

名色分離智

名色分離智が生じる前に幾つかの出来事を経験する。


1.膨らみ縮みと呼吸を観察していると、膨らみや縮みとそれを念じるこころが微妙に合わないときがある。あるいは膨らみを一回飛ばしてしまって縮みが起きているときに「膨らみ」などと念じてしまうことがある(*1)。これはそれ自体、膨らみや縮みといった色(ルーパ)と念じているこころ(ナーマ)が別々のものであること、すなわち名(ナーマ)と色(ルーパ)は別物(分離している)であるという智慧(名色分離智)が生じる一歩手前にいるのだが、当時はそれが分からず、ただ、呼吸とそれを念じるこころがすれ違ったり(色蘊は我ではないと思ったり)、妄想が出てきてそれをコントロールできない(つまり想蘊は我ではないと思ったり)、おなじく痛みをコントロールしようとしてもできない(受蘊は我ではない)などなどと、五蘊が我ではないことに関する智慧が生じていた。
ああ、これが五蘊非我なのだと納得してしまっていた(2017.10.25)。


*1 ナーマ(こころ)とルーパ(身体)がシンクロ(同調)しないのは、瞑想初心者であるからである。名色分離智は身体とこころがシンクロしているとき生じる(シンクロするようになって生じる)。気づきに気づくのは、呼吸(身体)をしているこころに気付くときである。それは呼吸と同時に起きる(シンクロしている)。この時決定的に、ナーマ(こころ)とルーパ(身体)しかなく、しかもそれは全く異なるプロセスであると発見する(名色分離智)。この異なるプロセスであるナーマとルーパの関係(因果関係)を観ていくのが、次の縁摂受智(えんしょうじゅち)である。


2.膨らみや縮みをヴィパッサナーで観ていくと、ああ、自分は膨らみと縮み以外の何物でもないんだ、自分は膨らみ・縮みなんだと分かり、身体が消えてしまうことを経験する(2017.12.21)。
このことについてスマナサーラ長老は何か言っていないかなと思い、「自分は膨らみと縮みである 身体が消える テーラワーダ」などとグーグルで検索した結果、「ブッダ智慧で答えます」(Q&A)→【24】 冥想中のトラブルhttp://www.j-theravada.net/qa/gimon24.htmlに行き着き、次の文章に出会った。



“さらに集中力が成長すると、もっと違う現象になります。たとえば、きちんと、膨らみ、縮みだけを観られるようになったら、からだがあることもわからなくなってしまうのです。ただ単に、膨らみ、縮みだけを感じるようになる。あるいは心がからだのどこかに集中して、そこに定着するとからだの他のことは消えてしまうのです。本人が消えたと感じる。足が消えた、手が消えてしまったという風に感じるんですね。それはもう、手が消えたという、物質的なことではなくて、手に対して心が活動しない、だから心が活動しないと、そのものは、その人にとって存在しないのです。”


3.1と2の経験があって、さらにヴィパッサナー瞑想をつづけていくと、名(ナーマ)と色(ルーパ)のふたつしかないんだという名色分離智慧が生じる(2018.1.11)。さらに念じる対象(色)があって、念じるこころ(名(ナーマ))があるんだという智慧(縁摂受智)が続いて起きる。そのさきはまだなので、ここまでにしておくが、ヴィパッサナーだけで、名色分離智が生じ、悟りへと進んだことから、「膨らみ縮み」を観察するだけで十分なのだ、自分にはアーナパーナ瞑想をして、第四禅定まで達してからその定力でヴィパッサナーしている時間はないんだという確信を得る。
マハーシだけで十分なのだ。観なさい、よく観なさい。「膨らみ縮み」をはっきり感じるだけで十分なようである。私はスマナサーラ長老から直接瞑想指導を受けたことがないが、亡くなられた鈴木一生さんが、悟りに至るためには禅定の力を高めて、その力を使ってヴィパッサナーしなければ…などとおっしゃて、マハーシを否定するわけではないが、あれは在家の方がやるのに便宜的な方法ですみたいなことを書かれているのを目にして、それじゃスマナサーラ長老は究極の悟りに至るのは無理だと知ったうえで、マハーシの「膨らみ縮み」を教えていらっしゃるのかと疑問に思ったこともあるが、そうではない。
マハーシ・サヤドーの「ヴィパッサナー瞑想」やウ・ジョーティカ・サヤドーの「自由への旅」を読むと、ヴィパッサナー瞑想だけで十分なのだ(悟れる)ということがよくわかる。スマナサーラ長老を信じていてよかったと思う。スマナサーラ長老という人は、これだけをやれば悟りに達しますということで、「膨らみ縮み」を観察しなさいと説法している。「それだけでは駄目です、サマタの禅定に入らなければ」などとは一言も言っていない。


階段は常に今踏んでいる階段しかない。今踏んでいる階段が因となって次の階段が出てくる。下から上までずっと続いている階段があるのではなく、階段は今踏んでいる階段しかない。怖いようだけどこれが真実。踏み終わった階段は消え、まだ踏んでいない階段は現れていない。
“瞑想していない一般の人々は子供から大人へと人生を通して続いている物質的現象と心理的現象を仮定します。
実はそうではありません、永遠に続く現象はありません。
すべての現象は瞬きする間ですら続かず、とても素早く生じては滅していきます。
ヨギは念じ続けていると彼自身の中で知るでしょう。”(仏教日記 マハーシ瞑想初心者指導より引用)仏教日記: マハーシ瞑想初心者指導