馬越康彦の日記

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「ふくらみ・ちぢみ」だけで悟れる

マハシの「ふくらみ・ちぢみ」はヴィパッサナー瞑想ではないとか、マハシにはその先があるという誤解がある。サマタ瞑想でサマーディに入ってから、その禅定の定力でヴィパッサナーしなければヴィパッサナーにはならないというのがその主張の要点である。
結論から言えば、サマタ瞑想で禅定に入ってからヴィパッサナーに移行して悟るというのは、古典的なやり方で、その方法は間違いではないが、ヴィパッサナー瞑想でヴィパッサナーニヤーナ(十六観智)が生じ、その智慧で解脱(阿羅漢果に至ること)するというのも可能である。
後者の方は時間がかからない。
マハシをやっているのにパオに走ってしまうのは、ヴィパッサナーで智慧が生じないからである。
「観なさい・よく観なさい」、「ふくらみ・ちぢみ」を観察し続けると、第一の智慧である「名色分離智」が生じます。
落ち着いてさらに「ふくらみ・ちぢみ」を観察するとナーマ(名・こころ)とルーパ(色・身体・物質)の因果関係がはっきりし、「縁摂受智」が生じます。
ここまでしっかり観察すると、小預流者(チューラソターパンナ、小シュダオン)になります。この時点で悪趣(地獄・餓鬼・畜生)には落ちなくなります。



お釈迦様が悟りを開いた時の様子が二種考究にあるという。亡くなられた鈴木一生さんのブログを引用する。

“「比丘たちよ、私の精進は始まり、不動のものになりました。念は現前し、失念のないものになりました。心は安定し、専一のものになりました。比丘たちよ、その私は、・・・第一の禅に達して住みました。・・・第二の禅に達して住みました。・・・第三の禅に達して住みました。・・・第四の禅に達して住みました。このようにしてその私は心が安定し・・・過去の生存を想起する智に心を傾注し、向けました。このように具体的に、明確に、種々の過去における生存をつぎつぎに思い出しました。比丘たちよ、これが夜の初分において得た、私の第一の明智です。生けるものたちが、・・・死にかわり生まれかわるのを見、生けるものたちが、その業に応じて行くのを知りました。比丘たちよ、これが夜の中分において私が得た、第二の明智です。『生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない』と知りました。比丘たちよ、これが夜の後分において得た、私の第三の明智です。」  

         
これが全部禅定の力でお釈迦様は見ているのです。
解脱しました。第三の明智
観察の土台となるのは禅定の力、とはっきり書いているのです。ですから経典によりますと禅定の力を持って解脱すると書いてあるのです。”
(二種考経より 鈴木一生さん講演会より)

私が思うに「念は現前し、失念のないものになりました」という、サティ(気づき)を確立したこ、とが基礎になって、そのうえでサマーディが生じることによって、過去の自分の生存を次々に想起することができる(宿命通)ようになったのであって、宿命通や天眼通が生じるには、念が現前し、失念のないものとなる(サティを欠かさず行う)ことが欠くべからざる条件、その上にサマーディに達するとどこまでも遡って過去の生存を次々と想起できますよという話で、「禅定の力を持って解脱する」というのは、行き過ぎではなかろうかと思う(*1)。「観察の土台となるのは禅定の力」ではなくて、念(サティ)なのである。


*1 悟るときは大まかな考察(尋:じん)と細かな考察(伺:し)があるので、第一禅定には入っている。行き過ぎではないと今は考える。(2018.12.20)


どうしてこういう結論が導かれるかというと、ヴィパッサナー瞑想智慧が生じなかったせいである。智慧が生じれば、清浄道論にあるように解脱に達するのは明らかである。サマーディを重視する人はサマーディのこともよく知らないのが大半である。
人によりけりだが、サマーディはほとんどの場合光が内から生じたり、外から来る光が身体を包み込むなどの体験を伴う。ものすごい喜悦感で体が満たされるから、絶対に忘れられない経験である。
世の中の人がサマーディに達したとか預流果に悟ったというのはほぼ100%勘違いである。そういう人たちの体験を読んでみると、だいたい名色分離智すら生じていない。サマーディにしても、ランナーズハイの延長のようなものだと思っている。サマーディは五蓋が休眠状態にならないと入れない。
五蓋が休眠状態になるというのは、普通の人にはまずできない。だからサマーディに達するというのも預流果に悟ったというのも、ほぼ100%間違い(勘違い)である。世の中というのは楽なことと嘘が蔓延するものである。


「ヴィパッサナーで十分です。ヴィパッサナーで必要な智慧を育てたら、解脱できます。ただ智慧によって阿羅漢果になるときには、第一禅定に達しています。」というのがスマナサーラ長老のお話で、サマーディはあれば、宿命通や天眼通が生じるが、なくても漏尽通が生じ、修業の完成が分かるというのが、長老の教えです。



始めのうちは智慧が生じないからヴィパッサナー瞑想はつらいです。こっくりこっくり居眠りすることもあれば、思い切って布団に入って寝てしまうこともあります。
それでも背筋を伸ばして「ふくらみ・ちぢみ」を観察してください。自分はいったい何者なのかとひたすら観察するのです。何者でもないならば、いったいなんなのか?そこがすべての始まりです。
人によりけりかもしれませんが、そのうちにいろいろ智慧が生じてきます。
私の場合は「ふくらみ・ちぢみ」を続けていって、身体が消える経験をしました。手とか足とか胴体とか頭とか、そういう感覚が無くなり、全部消えてしまって、それでも「ふくらみ・ちぢみ」を確認している念(サティ)が残りました。
それから1ヶ月で名色分離智が生じて、少し時間がかかったのですが、まもなく縁摂受智が生じました。
そこからはいろいろ経験できます。四大元素(地・水・火・風)を観ることもできますし、身体を32のパーツに分けて観ることもできます。
また、縁摂受智が生じれば、ナーマ(こころ)とルーパ(身体)の因果関係(因縁)が分かりますから、物質(ルーパ)の一刹那よりこころ(ナーマ)の方が相当速く生滅していることまでは楽にわかります(こころが物質の17倍速いということの17まではまだわかりません。これはアビダルマに頼るしかないのです。それでも、そのうち観察を続けていくと、有分心から有分捨断心、五門引転心、識、領受心、推度心、確定心、七つの速行心、二つの彼所縁心まで観られることになるだろうと思います)。
観察してください。観るんです、呼吸を。「ふくらみ・ちぢみ」と身体を観るんです。そして大念処経にあるように、身・受・心・法を観ていってください。
「ふくらみ・ちぢみ」は苦しい。これは苦そのものだと分かったら、法を観ているんです。四聖諦の苦聖諦はそれで分かるんです。そのうち苦しみの原因は渇愛であると分かります。もうわかるだけでいいんです。発見するのはブッダにしかできないのです。
釈尊が発見されたことを我々は四念処というレールに乗っかって理解していけばいいのです。理解と言っても知識じゃありませんよ。
瞑想で発見しなければだめです。智慧が生じないとだめなんです。
それでは皆様が仏教学者や評論家のような「空っぽのポーティラ」で一生を終えて輪廻転生していってしまわぬように願いを込めて…。

*「空っぽのポーティラ」空虚な知識人 | 日本テーラワーダ仏教協会