馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

幸せになる法則(ブッダの教えから)

世の中にはわずかな収入で生活していける人もあれば、1,000万とか2,000万円を超える年収でも赤字の生活で副業しなければならない人もいます。

今日は生きていくのに困らない教えを、ブッダの発見された“因果法則”からのアプリケーション(応用・適用)という形で、ネットで読むことのできる「ブッダラボ」からの引用を中心に、少し並べて記してみようと思います。

以下に早速、紹介いたします。(赤字の部分が引用を示す箇所です)。

 

 

 

「与えることで得るポテンシャルが得られる」

 

お釈迦様が発見した真理が、因果法則です。そして、「施し」というのは、因果法則の一つの使用例、現代的に言えば「一つのアプリケーションですよ」ということなのです。物理的なことで考えてください。何か取ろうと引く力を加えると、そのものが取られないように元のところにとどまろうとする力もはたらきますね。学校でも習ったと思います。作用・反作用などと言うでしょう。

そう考えると、「何かを取る」ということは、「取られないような反対のエネルギーを相手に与える」ことになるのです。「施し」というのは、この 因果法則の一つの使い方です。今、物質の例で説明しましたが、心でもこの力のはたらきは同じなのです。たとえば、他人の財布からお金を取ろうとすると、自分の財布の紐はきちっと締めて取られないようにする、ということが自然に出てくるのです。「与えよう」と、 こちらから相手への力がはたらけば、相手側から自分のほうへも力がはたらくのです。

 

 

与える 行為 自分 恵まれる 結果 なる

お釈迦様は、因果法則を知って、「じゃあ、取ることではなく、与えることをやってみたらどうですか」と説かれたのです。こちらが「取る」だと相手も「取る」になりますが、こちらが「与える」だと、向こうは逆のことを感じます。

なんとなく「申し訳ない」という気分になります。犬にしても、エサを与えればしっぽを振ったり、ニコニコと笑って、こちらに楽しみを与えてくれます。「取る」ことになると犬は遊んでくれません。犬にやみくもに「おまえ、しっぽを振りなさい」と言っても、振ってくれません。われわれは動物と仲良くしたいとき、いつでも「与える」ということをやっているでしょう。

言葉の通じない動物たちも、こちらの「与える」というエネルギーに負けます。負けて、こちらの言うことをやってくれます。ですから、われわれは「取る」という欲ではなくて、「与える」 というエネルギーを心に作ってしまえばいいのです。そうすると、いきなり恵まれた環境 が生まれます。いつでも周りから恵みをもらえる状態になるのです。

 

日本の大金持ちの人々がよく言う言葉があるでしょう。「お金というのは向こうから寄っ てくるものだ」という言葉です。自分でなんの努力をしていなくても、どんどんお金に恵まれると言います。

そのような人々は、過去世でいっぱいお布施をして、与えることをして生まれているのです。ですから、エネルギーがいっぱい溜まっているのです。そういう状態なら、冗談で何かをやってもヒットして、バカみたいに儲かってしまいます。本人が転がり込む大金の管理に苦労するわけでもありません。管理は、それぞれの会社が必死になってやっていたりして、 ただただ、お金がどんどん流れ込んでくるのです。

「与える」は、恵まれるポテンシャルの貯蓄 「施す」「与える」ということは、それによって自分が恵まれるポテンシャル(potential/ 潜在的な)エネルギーが蓄えられていくのです。「与える」ことは、恵まれるポテンシャルとなって、恵みが寄ってくるのです。「取る」はその 反対で、罪になります。「与える」を繰り返していくと、何もせずとも、なんの罪も犯さないで、ものすごく豊かになります。幸福になります。

 

アルボムッレ・スマナサーラ. 欲ばらないこと(サンガ新書): 役立つ初期仏教法話13 (Kindle の位置No.1589-1596). samgha. Kindle 版.より

 

釈尊は、常に「与える」行為をしなさいと説かれます。与える行為は、貧乏になるのではなく、自分の富も守られて明るく幸福に生きることも出来て、死後、天界に生まれる善行為なのです。「与える行為によって豊かになるのだ」という真理もまた、普通の人々には理解し難い仏陀の教えなのです。

事実を語っているのは、一切智者である仏陀です。世間ではありません。世間は真理を発見していません。ブッダのみが、因果法則を発見して解脱されたのです。それから多くの方が解脱に成功されました。本当のことを言っているのは世間ではなく、ブッダなのです。

(パティパダー巻頭法話129→怒りに慈しみで勝つより)

参考になる話:ジャータカ物語より

j-theravada.net

 

「将来を心配するならば、“与える”ことを実行してください。そうすると、“得る”ポテンシャルが現れて、明日を心配する必要がない生き方ができます」ブッダラボ 「幸せの育て方」初期仏教月例講演会 2017.4.14 スマナサーラ長老談)

 

そうですね。一人すぐに思い出すのは、スリランカのあるお坊様です。将来仏陀になると決めて修行している人で、ものすごいパワーの持ち主なのです。

 

 ですが、そのお坊様は、自分では何も持っていないのです。修行の身だからと何一つ持たないで厳しい修行を続けています。ところが、彼がお布施をすると、ものすごい金額のお布施をするのです。新聞に出るほどのビッグニュースになるので、スリランカの国の人たちの間では有名でした。

一体その財産はどこから来るのかと考えるのですが、お坊様はいつ見てもからだひとつで、持ち物は何もないのです。よく聞いてみると、ある場所に行くと、いろいろな信者さんからいろいろなお布施が届いて山積みになるんですね。ところがお坊様は、その場所を発つときには、そこら辺の人にみんなあげて、何も持たずに帰ってしまうのだそうです。また別の場所へ行くと、またそこに山積みになる。するとまた、それをみんなにあげて、また移動していく。

自分では何も持たない主義で、あるものは何でもあげると覚悟を決めているので、逆にものすごいパワーでものが集まってくるのです。ですがいくら入ってきても、それに対する欲も執着も全くない。何かよいものをもらったら、こういう風なお布施ができる、そんなことばかりしか考えないんですね。

 

 一度何か病気になって、入院されたことがありました。向こうの病院というのは無料ですし、あまり贅沢な設備はありません。それで、入院されているうちに、虫が多いので蚊帳があったほうがいいなあと言っておられたらしいんですね。そしてお坊様は3日で退院したのですが、退院すると間をあけず、すべてのベッドにひとつづつ蚊帳を用意したそうです。

 

 大胆な説法もしない、普通のお坊様なんですが、何かの機会に法事で同席でもしたら、自分の持ち物を全部お布施して帰りたくなるような、そんなエネルギーを持つ人なのです。身につけていた高価なネックレスをお布施した女性も、「しまった、質屋に持っていけばいくらかになったのに」などという気持ちにもならないのです。

それよりも差し上げたことの喜びを、いつまでも自慢するのです。ぼくがその話はもう聞き飽きたといっても、本人にとっては正直な気持ちで、良いことができたと喜びを感じているのです。

 

よりたくさんの、限りない喜びが欲しいならば、得るのではなくて、あげるという行動をするのです。限りない財産を持つ宇宙や地球に、我々が自分の持っているものを差し出したら、向こうは大きなお世話ですからいりませんと、逆のエネルギーを出してくるのです。

そのような人は何不自由なく、自分に必要なものが自分の周りに揃っているのです。得ようと手を伸ばし、とったものではないのです。簡単に揃うだけなのです。揃っていても、特に自分のものだとは思わないですし、いつでも人にあげたい気持ちでいるわけです。

 

法話と解説 あなたとの対話 「善行為とは何か」(日本テーラワーダ仏教協会)より)

 

 

足るを知る

 

 ある日、お釈迦さまは出家者に対してこのように教えられました。

「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」

 

 出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが――

 

 それから衣についてお釈迦さまは、「そのへんに捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を1枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。

 

 食べものについては、「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もしも食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」

 

 住む処についても、「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。

 

 要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。

 

 しかし、最小限のもので満足できるように心を育てたならば、他人からほんの少し何かを貰っただけでも楽しい気分になれるでしょう。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。それで人生を楽に過ごすことができるのです。

 

「得るために与える」を「与えてから得る」というやり方に改良するのです。つまり 、人や社会から何か「得よう、貰おう」とするのではなく、先に自分から「与える」のです。 これが間違いのない正しい方法なのです。

反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。誤算とは、

 

 ・自分からは何も与えない

 ・貰うことばかり考えている

 ・要らないという人に対して一方的に、強引に物を押しつける

 ・得ているものに満足せず、「足りない、足りない」と言って不平不満を抱く

 

幸福の見積書

 

 これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。

 

 先ず、「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でもお金でも才能でも労力による奉仕でも何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。

 次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つかということを考えて、そちらに与えるのです。

 そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。

 

豊かさの悩み

 

 「幸福の見積書」に従って生活していると、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり、仏教的に生きているなら「私は1万円でよかったのに5万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがあるでしょうか。

普通は「残業までしたのに1万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。

 

倒産しない秘訣

 

 お金が欲しい、物が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいなど、私たちはたいてい何かを求めながら、社会のなかで生きています。しかし人が何かを欲しいと思うとき、それはほとんど自己中心的であり、周りのことは考えていないものです。言い換えるなら、欲しいとばかり思っている人は、周りを軽蔑して侵害しているのです。

何かを貰うときは誰から貰うのですか? 相手からでしょう。なのに、その相手を軽蔑していれば貰えるはずがありません。相手つまり社会は、次第にその人を疎んじるようになり、ついには捨ててしまうのです。捨てられたらもう何も貰えません。これで倒産するのです。

 そこで倒産する前に、いまの生き方を転換しなければなりません。他人から貰おう、取ろうとするのをやめて、自分が持っているものを皆と分かち合おうというやさしい心で生活するのです。そうすれば人生は絶対に倒産しません。これが倒産しない秘訣なのです。

 

損を避ける方法

 

 損をしない人生を送るためには、与えることをモットーにすることです。社会に対し、自分は何ができるだろうかと考えて、役に立つように生きるのです。そういう人は当然、社会に必要な人間になります。必要な人間なら、社会はその人を放っておきません。あなたがいなかったら困ります、と言って生かしてくれるのです。つまり自然に生かされるのです。そうなれば、もう他人と競争する必要もなくなりますし、敵もいなくなりますから、生きることはとても楽になります。

 

 ですから自己中心的な欲望を捨てて、皆が幸せでありますようにという慈しみの心を育ててください。慈しみがあれば、絶対に損をして苦しむことはありません。得だけの、徳に満ちた幸福な生き方ができるのです。

 

 最後に、忘れてはならない重要なポイントをお話いたしましょう。慈しみの心で、幸福に生きることだけが、私たちの最終目標ではありません。輪廻のなかで生存している限り、完全な幸福は得られないのです。生きている間中ずっと「しっかりしなくては」と気を張っていなければなりません。少しでも怠けたり、不注意になれば、足元の土台がガタガタと崩れて、幸福が壊れてしまうのです。これは大変危険なことです。

 

 そこで私たちの最終目標を「心を清らかにして悟りを得ること」に設定しなければなりません。解脱こそが、最高の得であり、究極の幸福なのです。

 

  • 破滅行為とは?

 

 仏教では、財産を失い、自己破滅につながる行為として、次の6つの項目を挙げています。

 

1 酒や麻薬に溺れること。

(酒を飲むと、人は酔っ払って自分の行動や言葉を管理できなくなります。病気の原因にもなりますし、お金も浪費します)

2 夜遅くまで町を遊び回ること。

3 踊りや歌、祭りやパーティなどの集会に熱中すること。

4 賭け事をすること。勝てば相手に怨まれますし、負ければ悔しくなります。

5 道徳を守らない人や悪影響を与える人たちとつきあうこと。

6 怠惰に耽ること。

 

 世の中にはこのような破壊行為があることを理解して、損を免れたい人は、これらを避けるべきです。

スマナサーラ長老 「幸福の見積書」 根本仏教講義 より)

 

 

 

Q.お金についてなのですけど、今の実社会で生きていくためには、やはりどうしてもお金は 必要です。「お金を稼ぐ」、特に「たくさん稼ぐ」ということに対しては、スマナサーラ長老はどのようにお考えなのか、お聞かせください。

 

A  その場合は具体的に考えた方がいいのです。たくさん稼ぎがあっても意味がないのです。 結局、死んじゃったら全部置いていかなくちゃいけない。だから、まず、「自分がどういう プログラムで生きるのか」を具体的に知っていて、それにはお金は必要ですから、その分がんばればいいのです。そのお金だったら、簡単に手に入るのです。だから、人間、必死で苦しまなくても、一応、収入は入ります。何で、みんなは必死で、死にもの狂いでがんばるのかというと、どれくらいお金があればいいのかを、わかっていないのです。

途中で死ぬまで、がんばるしかなくなってしまうのです。いくらお金を貯めても、それでも何か足らない気分になるのです。ですから、計画を立てた方がいいのです。仏教では「お金を儲けてはいけない」という話は、必ずしもないのです。特に在家の人には、「ただで喰うなよ」と言っています。みんな仕事をしなくてはいけない、人間なら、それは当たり前のことです。

そういうことだから仕事をして、金が儲かることは、決して悪くないのです。どのくらい儲ければ、自分が穏やかで幸せで、問題なく生きていられるのかということなのです。たまには外国旅行もしたいでしょう、お洒落な服でも買いたいでしょう、子供達にも楽しくいろんなことしてあげたいでしょう。家賃も払わなくてはいけませんし。そういう適当な適切なところは、少し微妙に計算して、「これだったら、あと五万円ぐらいあった方がいい」と、わかるでしょう。

それは、簡単に手に入りますので、計画通りにしてほしいのです。「いくらあってもいい」というのは、とんでもない考え方です。金なんかは元々、 危ないのです。命取りですからね、本当に。お釈迦様は金というのは、毒蛇に譬えているのです。ですから、本当は危ないものです。まったくない方が安全です。

泥棒の危険はないのですから。金を使わない社会でしたら、お互いに助け合って物々交換して、うまくいきます。今では、それは無理ですから、我々は計画を立てて、自分の理性的なそれなりの幸福像を作って、大胆なことを考えないで、そちらにお金が足らなかったらその足らない 分はちょっと余分にがんばる。十分あるのだったら、人生は楽しめる。十分あるのだから、その分仕事をしない。そういう考え方なのです。

 

 

ケチで、自分の持つもの、能力も財力も分けようとしない人、そういう人は、その瞬間にはわからないかも知れませんが、いずれは貧しくなって不幸になる、それが業の話です。そして生まれ変わっても、同じように貧しいところに生まれ変わります。心は似ているところに磁石のように引き寄せられるのです。

 

 仏教には餓鬼道という話があります。餓鬼道というのは、あれが欲しい、これが欲しい、食べものが欲しい、飲み物が欲しい、着るものが欲しい、そういう無いものを欲しがるエネルギーで生きる世界なのです。無い、無い、と泣かなければ生きていられないのがこの餓鬼道の世界です。欲しい、欲しいというエネルギーで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーが思う存分発揮できる餓鬼道に生まれ変わるといわれています。

 

 怒りも同じで、怒りだらけで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーがそのまま発揮できるような、戦う相手だけがいるような世界に生まれ変わるのです。業の話が因縁の話とわずかに違うところは、心は似たところに引き寄せられるということでしょう。周波数を探すかのように心は、似た心に引かれます。

 

 ですから、我々は、清らかな心を作ったほうがいいということです。簡単だからとすぐ怒りを持ったりすることがどれほど恐ろしい結果を生むかを知るべきです。

 

 人間というのは知慧がなく、因果法則を知りません。ですから、自分がどのくらい恐ろしいことをしているかということに気づいていません。もし知っていれば、今すぐ心をきれいにしようと頑張るはずだとお釈迦さまはおっしゃいます。

例えて言えば、からだに火をつけられたとしても、火を消すより先に心清らかにすることに励むだろうというのです。頭の上で原子爆弾が爆発しても一度死ぬだけで、たいして怖いことはない。でもわずかに一度怒ったら、一回死んでも終らない。延々と業がついてくるのだと、業の恐ろしさをお釈迦さまは話しておられます。根本仏教教義 業と因縁(4)業。あなたの心が問題より)

 

物惜しみする人は何故天界に行かないのでしょうか?

物惜しみする人には喜びがないからです。

天界は喜びの世界ですから、喜びのない人の波長とは合わないのです。

 

愚か者でも、プレゼントをもらえばうれしいことは知っているでしょうが、プレゼントを与える喜びを知らないのです。もらうことばかり考えて、あげることをしない人は嫌われます。嫌われれば気分が悪いと思いますが、愚か者はそれをあえてするのです。

 

お釈迦さまがご自分の前世を語られて「基本的に人は布施の効果、功徳がどれくらい大きいかがわからないもの。だから一般人はあまり布施しないが、わたしはその施しの功徳の大きさを知っていたので、布施をして、何回も天界に生まれ何回も天界の王になった。」

 

 

お金儲けにしても、自分に、人間に相応しくないくらい儲けたがります。仕事して何か物を作って売るとき、その商品から自分が得られる利益というものは、良心的に考えれば なんとなく決まっているのです。「私はこの物を売ってこのくらいのお金が入ればいい」という基準があるのです。しかし現代人は、何か一つものを作ったら、それで一生生活できるくらいのお金を欲しがります。

もし余計なお金を取ってしまったら、その人の善いカルマをその分使ってしまったこと になります。一生分のお金をいっぺんに欲しがって手に入れたら、その人の一生分のカルマはもう終わりです。そのようにカルマの扱い方が悪いから、人生はガタガタになるのです。誰でも人間は、正しく使えば死ぬまで充分使えるだけのカルマを持って、人間に生まれているのです。

 

アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析) (Kindle の位置No.2347-2349). samgha. Kindle 版.より

 

 

自分ができることを誰かに親切にやってあげると、お金に限らず「生きられるポテンシャル」が自分に入ってくるんです。それが正しく働いて得たポテンシャルだったら、身につくんです。(悪銭身に付かず)

譬え額面が少なくてもそれで生活できます。そうでないと、「与えられてないモノを取る」という戒律・道徳を犯したことになります。金がみるみるなくなって、借金して生活するはめになるんです。

https://twitter.com/jtba_talkより2017.7.9)

 

お金というのは不思議な存在なんですよ。

 

紙、数字じゃないんですよ。お金というのは、生きるために必要なポテンシャルエネルギーでしょう。たとえば百万円あるということは、いろいろなものが買えるポテンシャルを持っているということでしょう。だから、数字ではないんです。仕事をしたら、自分が生きられるくらいのポテンシャルをいただいているんですね。

 

それに今の世界で、お金、給料と言いますが、それはポテンシャルなんですよ。それが正しいポテンシャルだったら、しっかりと生かされる。

 

 たとえば、金が入ったんだけど、あっという間に消えてしまった、借金もしなくては、というのは危険ですね。

 

自分でしっかりいただいたお金だったら、10万円でも一か月間生きられます。50万円必要だと余計に計算する必要がなくなってしまうのです。

 

そういう理解もあったほうがいいでしょう。

 

 自分がいただくポテンシャルは、正しくいただく。

 

そうでなければ、与えられていないものを取ったという戒律を犯していることになります。その戒律を犯してしまうと、貧乏になります。借金する羽目になります。俗世間で言う「盗むなかれ」というような単純なものではないんですよ。与えられていないものは取るなかれということです。与えられたものは取る必要がないからね。

 

 一つ思い出したのは、自分の国で、勉強しなかったり、体が弱かったりで、あまり仕事をする能力はない人が、それでも自分にできることを頑張ってやっているんですね。給料をもらう程の仕事ではないんですが、家で留守番をする、雑草を取る、そういうことをやる。

それをやってもらった家の人は、「よかった」という気持ちになるんですね。そういう雑用をする人が病気になると、みなが面倒を見てあげる。その人には一銭もお金がないですから。周りの人が服を買ってあげたり、出かけるときは連れて行ってあげたり。だから、自分自身でできることをやっていると、生きられるポテンシャルが入ってくるんです。

 

 

すべてお金で計算する必要はないんです。

 

それを理解して頑張ってください。

ブッダラボ 「適職が見つからなくて悩んでいます」より)

 

 

ざっと並べると以上のようになります。途中引用元が不明の部分もありますが、ほぼすべてスマナサーラ長老の言葉です。私はスマナサーラ長老の著書で、これはと思ったものを自分のワード文書にコピペして、時間が許す限り繰り返し読んでいます。

ワード文書A4横書きで、50~60ページのものが、3部出来上がりました。これを繰り返し読んでいくわけです。それにプラスして、座る瞑想を一日30分、これを3年続けて結果が出ます。

結果が出るまでの時間は人によりけりです。早ければ一週間で不還果または阿羅漢果になります。

皆様がお幸せでありますように。