馬越康彦の日記

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母、すい臓がんになる④

母の終わりがだんだん近づいてきているようだ。9月末でがんの告知から丸四ヵ月が過ぎ、この調子なら83歳の誕生日(11月22日)まで何とかなりそうだ、いや、運が良ければ年を越せるかもなどと思っていたのだが、ここ一週間というもの、一日一食か二食で、夕方のニュース報道を見ると「疲れた」と言って、7時には二階の自室へあがって寝てしまう日々である。

肝心の精神状態はどうかというと、死に対する恐怖感でいっぱいで、安穏な精神状態からは程遠いというのが実際のところである。

ケアタウン小平の医師から、死に対する恐怖の実体がないことを何度説明されても、母の心は恐怖から解き放たれない。

痛みは緩和ケアで取り去って、安らかな最期を迎えられるようにとケアタウン小平のチームは全力で取り組んでいただいているのだけれど、本人の精神状態(こころ)はまったく変えられない。

実は自宅で最期を迎えるか、病院で最期を迎えるか、どこまで長生きさせられたかなどということは私にとってさほど価値がなくて、輪廻から脱出する智慧を生じさせるのが私の義務だったのである。自宅だろうが病院だろうが、肉体はどこで滅んでもいい。

 

母に何の智慧も生じないというのは、私にとっては不本意である。自我がない。五蘊の集まりでしかない。単なる因果関係によってあなたは存在して、それが因となって結果としてまたあなたが生まれる(果の身)ということがどうしても母にはわからない。どうやったら理解できるのか?

 

私「今お母さんがいるのはなんで?」。母「??」。私「ちょっと前にお母さんがいたからでしょう」。母「??」。私「ちょっと前にお母さんがいたのはなぜ?」。母「??]。私「そのちょっと前より更に前にお母さんがいたからでしょ」。母「…」。私「だから人間に生まれる前にもお母さんはいたんだってば」。母「何言ってるのかわからない」。ずっとこの調子である。(この調子で輪廻転生し続けているんだけど、ね)。

 

何べんスマナサーラ長老の仏教法話の「死に方入門」を一緒に見て、解説してあげて、「ああ良かった。これで理解が進んだに違いない」と思ったかしれないが、それは一方的に私の勘違いで、本人は魂や変わらぬ自我があると心底信じて治っていない。

「我がない」ということが、いかに教えがたいか思い知らされた。

慈悲の瞑想も疲れると言って、ここ一週間ともに唱和していない。こころは慣れた妄想の回転で動き回ってしまっている。妄想したい放題妄想している。それがどれだけ危険か本人にはわからない。そうだよね、普通わからないものね。

 

こうなったら最期の瞬間に勝負をかけるしかないと覚悟する。最期の瞬間に「慈悲喜捨」でこころを満たして、それ以外考えさせないこと、これしか私にはできなさそうである。

ああ、サーリプッタ尊者がいてくれれば、母を預流果に悟らせることができるのに。

 

たしかサーリプッタ尊者は、涅槃に入られる前に、自分の母親を預流果に悟らせたとか、聞いたような気がするが。最大の親孝行をしているよね、サーリプッタ尊者は。

 

親の生んでくれた恩、育ててくれた恩に十分に報いるのは実に難しい。でも五戒は守っている。そこだけが救いである。

 

残された時間何ができるのか、こころをどう向上させるのか、よく考えねばならない。

自分の修行も進めなきゃならないし、ね。私も母の介護が終わった先のことは考えていないし…。