コロナ禍でこころの問題を解決する 最終解脱へ
新型コロナで世界中は大混乱している。著名なアーティストや政治指導者が世界中で日夜テレビやネットにより、様々な訴えや呼びかけを行っているが、どれも場当たり的で、最終解決手段ではない。
歌ったり踊ったり、童話を読み聞かせたり、この期に及んでまだつまらないお笑いを演じたり、作家が小説を書いて慰めようとしているが、どれもコロナの脅威に勝てそうもない。こんなお粗末なレベルでは、人の恐怖心を取り除き最終的な解決をするための叩き台にもなりはしない。いかにコロナ前から人類は芸術などといういい加減なものに溺れて、酔っぱらって生きてきたかがよく分かる。
我々はこんな程度の精神状態だったのかと、あらためてこころの未熟さを恥じるばかりである。こころの未熟な者が、同じくこころの未熟な者に歌や踊りを披露しても、なんのこころの安らぎにも、最終解決にもならないのである。
結局こころを病んだ人は、酒や麻薬、ギャンブル、性風俗などに救いを求めて依存してしまう。暴力に走る人々もいる。まるっきり原始人と変わりないのだ。文明社会などと言ったところで。コロナによって化粧を落とされた原始人が世界中をうろつく。
テーラワーダ仏教ではこういう時何を薦めているかと言えば、物質的にいくら問題を解決してもまたウィルスによるパンデミックや、昨年のような台風被害、あるいは地震被害などの自然災害が生じたらすべて無に帰してしまいます。もう、それは繰り返して切りがありません。物質にいくら頼っても「スタートに戻る」の繰り返しです。だから、物質は置いておき、こころの問題を解決して、何事にも揺らがない最終解決をはかってくださいということである。
つまりいい機会なので、解脱して最終的なこころの平安を手に入れてくださいということなのである。それでなすべきことはすべて終わるから。コロナで困っている人は経済的な安心を求めて右往左往する。だがここで悟りを開き、こころの問題の最終的な解決をすれば、すべて終わり。涅槃がある。最終的な絶対的安心を手に入れて、輪廻という現象世界で残されたことは、ただ肉体が朽ちる(自然に亡くなる)のを待てばよいだけのことである。金を稼がねばとか、大学に進学しなければとか、結婚しなければとか、子供を育てなければとか、企業を、店を復活させなければとか、そういう常日頃頭を悩ませてきた諸々の問題はすべて尽きる。悟ればすべて終了。普通の人にはそれが(何をすれば終わりなのか、生きる目的は何なのかが)分からないから、生き続けるためにまた、とにかく食べていかなきゃと盲目的に経済活動を始める。またあらゆる悩みの種がそこから生じ、喜びと悲しみの歳月を重ねているうちに歳を取ってタイムオーバー。輪廻の中で再び人間に生まれる確率はほぼゼロだというのにタイムオーバー。
いい機会である。生存欲(どこまでも生きていきたいという渇愛)を根こそぎ滅してしまうには、こういう生きていけるか死ぬかというぎりぎりの切迫した現実の危機が必要なのかもしれない。人々は疑心暗鬼になり、自分が生きていくためには平気で他人を踏みつけ、殺人でもなんでもしてしまう今だからこそ、こころを最終的な平安へと導けるのだ。平安に達すれば、輪廻は終わりである。もう転生して転生して無限の苦しみを味わうことから解放されるのだ。
私の個人的な体験になるが、昨年暮れに母を癌で失い、近隣住民から死ぬほどの嫌がらせや攻撃を受け、小平市から府中市へ越したら、そこでも同じように死んでもいいほどの塗炭の苦しみを味わことになった。そのとき、「もう死んでもいいや。もう終わっていい。この肉体にも命にも執着しないぞ」と生きるのを諦めたのである。そうしたらどういうわけかこころが無上の安らぎを感じて、究極とも思える精神の安穏状態に入り、たとえて言えば、味方が一人もない敵陣の中で、敵が銃や剣をもって、お前を殺してやるぞと幾重にも取り囲んでいる中で、まったく恐れることなく、究極の精神の安らぎ、安穏状態に入って動じることがなくなってしまったのである。
命に対する執着を断つと、この究極的な精神的安らぎ、つまり解脱に達する。もっとも捨てがたい強烈な渇愛、それが生存欲、つまりどうあっても、なにがなんでも、他人を殺してでも自分は生き延びてやるんだという強い執着・執念・固執であり、それがあるかぎり、解脱はできない。死にたくない、まだ生きていたい、まだ満足していない、まだ見たい、聴きたい、触れたい、味わいたい、嗅ぎたい、考えたいという充たされることのない強烈なエネルギーが、死んだあと再び別の世界で身体をつくり出し輪廻転生は続いていく。このシステム(一連のエネルギーの流れ)はテーラワーダ仏教、つまりお釈迦様以外には発見できなかったものである。釈尊だけがこのからくりを解き明かした。それだけでなく、この問題の最終解決の道から、何から何まで解明した。この教えは誰でも実践できる。神を信じなければ救われないとか、そういう対価や負担を何も要求しない。誰でも「来れ、見よ」のオープンチャレンジなのである。たちどころに結果が出る。ところが誰も知らなかったのである。スリランカからアルボムッレ・スマナサーラ長老が来るまでは。
命を脅かす具体的・現実的な危機状態で、いろいろ生き延びてやろうと試みて、それでも無駄な足掻きだと分かって、もう死んでもいいんだと諦めること、これを経験しなくては最終的なこころの安らぎは得られない。
釈尊が悟られた時の言葉を引用する。
「理解しがたい、発見しがたい、安穏に達する、優れている、言説を乗り越えている、完全たる、智者に理解できる真理を発見した。
しかし世の人々は、身体を(生きることを)好む、生きることを喜ぶ。生きることに耽溺している。生きることに耽溺している人々には、〈これによりてこれが生まれる〉という因縁の理解が難しい。一切の現象に対して、執着を捨てて、渇愛を根絶して、達する涅槃を理解することも難しい。
それでも私は説法するであろう。人々はまったく理解しないだろう。結果は、私が疲れ果てることに過ぎない。」
私は小平市での攻撃を避けて、八王子でホテルを転々とし、住所が分からないようにと、引っ越しを二回に分けて府中市のマンションへ移ったのだが、その甲斐もなく引っ越し先は敵に知られており、そこで下卑た大衆による暴力・どたんばたんと階段や床を踏み鳴らす騒音・殺してやるという脅迫を受け、(それは昼間から深夜に及び、管理会社や警察、犯罪被害者相談センターでは助けられない。あたかもコロナで苦しんでいる生活困窮者が救われないように)私は生きるのを諦めた。
どう隠れて生きていこうとしても、こいつらは私の後を追いかけ、執拗に何の目的や生きがいがあるのか知らないが、私に暴力をふるい、苦しめる。誰も助けてくれないし、助けられない。もとよりこころがここまで清らかになっていなかったら、こちらも暴力によって対抗し、相手を殺害しようという気にもなるのだろうが、悟りの階梯をすすむと、怒りもなにもなくなり、ただ相手に任せるしか仕様がないのである。攻撃的敵対心が失われる。凡庸な人は敵が現われると、攻撃するか逃げるかの二者択一である。獣と同じなのだ。
ついでなので、無抵抗の人に危害を加えるとどうなるかダンマパダ(ブッダの真理の言葉)に書かれているので記しておこう。なにも反撃してこないからと危害を加えるとこうなる。
「手むかうことなく罪とがのない人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう。
(1)激しい痛み(2)老衰=ぼけること(3)身体の傷害(4)重い病(5)乱心
(6)国王からの災い(7)恐ろしい告げ口(8)親族の滅亡(ほろび)と(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。
この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる
*ダンマパダ第10章 暴力 137偈より
普通の歯向かうことのない人に危害を加えてこの災難である。こころを清らかにして怒りを消し去り、歯向かはないのではく、怒りがないため歯向かえなくなっている聖者に攻撃を加えたら、もうどんな未来が待っているかわからないというものだ。愚か者の暴力好きな一般人は、上に挙げた災厄に出会うと、因果関係が分からないので、自分が暴力をふるったから不幸になったのに、その原因を歯向かわない大人しい人や聖者にあるのだと勘違いして更にひどい暴力を加える。もうその先彼らがどうなるかは推して知るべし。彼らはいつまでも恨みに思い、根に持つ。人生を台無しにしてしまい、死んだあとは何千万憶年も繰り返し悪い処(地獄など)に生まれる。
結局、愛媛県今治市へ更に更にと越してきたのだが、なにも変わっていない。今治でも同じような被害を被っている。私はもう生きるのを諦めた。そして究極的な精神の安らぎを手に入れたのである。
四面楚歌になり、生きるのを諦めると手に入れられる最終的なこころの安穏があります。これは本当です。生き続けたいという渇愛が断たれたら、もうこころは次の身体を生じさせません。終わりです。ゲームオーバー。輪廻の苦しみが終わったのです。これが釈尊による最終的な苦しみの解決なのです。
ちなみに私が車のドアをどたんばたんと開閉したり、床をものすごい勢いで延々と踏み鳴らしたり、壁を叩いてビビらせたり、犬をこちらに向かって吠えさせて「ビビってる」と委縮させたり、深夜あるいは日中下卑た声で笑い声を立てたり、怒声を発したり、人の枕もとで延々と恨みつらみを大声で話して人を怯えさせたりするのをなぜ放置しているのかと言えば、私はカルマ(業)の働きを知っているからである。
その昔、あるバラモンが神にいけにえを捧げるべく、やぎの首を落とした。彼はその悪業で、地獄と畜生界を行ったり来たりすること500回、すべてこの世のものとは思えぬほどの恐怖に震えて500回首を切断されて、ようやく悪業の報いから逃れられた話は有名である。一回首を落としたカルマの影響から脱するのに、軽く500回は自分の首を落とされる。一回悪いことをしたら、一回悪い(ひどい)目に遭うのではない。無数の悪い目に遭うのだ。
またスマナサーラ長老の「パワーアップ ユア ライフ」という業(カルマ)の本には、悪業をどのように受けるかという感覚について、次のように記してあるのだ。
「カルマの判断は感覚でするものです。あなたが他人にどのような感覚を与えたかで、あなたも似たような感覚を受けるのです。満腹感を与えたら満腹感、喜びを与えたら喜びです。品物で判断はしません。結果はよいことをした人の感覚と、受ける側の感覚の組み合わせなのです。」
「たとえば、私が犬を殺したとします。その場合、犬に何をあげたでしょうか。最大の恐怖感、最大の苦しみを与えたことになります。そうなると、自分も見事にその結果、その感覚を受けるのです。」
「わかりやすい世界に戻ってみましょう。私が人を殴ったとします。殴られた側はどんな感覚を受けますか?とても苦しい感覚を受けますね。そして殴っている最中、殴る人も痛い感覚を受けます。そんなに気持ちのいいものではないのです。殴り合う場合に、殴る側がすごく気持ちがよくて、殴られる側だけが痛くなるのなら、みんなとっくに殴り合っていると思います。殴れば殴るほど、刺激的で楽しくてたまらないのなら、死ぬまで殴ってしまうでしょう。けんかをするときは、殴る人も殴られた人も痛いことは痛いのです。
殴る側は痛いだけでは済みません。心の状態もかなり悪いのです。怒りや憎しみで堪らなかったから、殴る行動に変わったのです。自分で自分の管理ができないほど心が混乱して乱れているのです。常識的な人間の心ではありません。
身体の痛みは簡単になくなりますが、心の痛みは何十年でも続くものです。それで、その測り知れない心の痛みと、自分が人を殴るとき受ける痛みと、相手に与えた肉体的な痛みと精神的なダメージのトータルが、自分のカルマになります。自分では制御できないポテンシャルが心に溜まってしまうのです。
この時点でこの人の心は軌道修正した、性格が変わってしまったと理解しておきましょう。条件が揃った瞬間に、その悪のエネルギーが結果を出すのです。」
悪人が何十年も私に加害行為をしてくるのは、彼らの心の痛みが何十年も続いているからである。もうその苦しみはほとんど測り知れないほどの長い間悪人に付きしたがって彼らを悩ます。死後も永遠と言える長きにわたって苦しめる。悪人が私から手を引かないのは苦しいからなのである。善を行えばいいのに、因果関係が分からないから更に人を苦しめようと必死になり、延々とこの罠(仕組み)から逃れられない。
3年半前に他界した父と、昨年暮れに亡くなった母。両親には本当にお世話になった。死出の門出に何ら持たせてあげることはできなかったから、せめて自分が解脱して土産話を持たせてあげたかった。彼らの名誉になればと思った。遅ればせながら約束を果たせてよかったと思う。
ごんたさん、コメントくださった皆様、本当にありがとうございました。感謝いたします。ありがとうございました。
*PS 凸版印刷勤務時代に私が痴漢を働いたということで、私から職を奪い、私を統合失調症に追い込み、あらゆる外へ出る機会を奪い続けたS條、S水、N根、M浦他へ。私はもうあなた方に恨みもつらみも持っていない。追い込まれたことで、私は逆襲もせず、逃げることはできなくなったので、私は第3の手、命を諦めることによって究極の安穏に達した。もはやすべての悪を取り除いている。あなた方がこれ以上続けるなら、私はコロナの収まるのを待って国外へ出る。もとよりこの国(日本)にも、この国の人にもなんの未練もない。誰一人あなた方に逆らえなかったのだから。私はもう誰も待たない。私は独りだ。もう死んでもいいし、ただ命が尽きるまで生きようと思う。昔はいろいろな悪にまみれていた私はおかげさまで、すべての悪を除き去った。
あなた方もあなた方の道を行くがいい。私からはすべての悪が除かれている。あなた方も手を染めるな。お互いに残り少ない人生だから。私はテーラワーダ仏教に出会い、すべての生命に慈しみの念を持つ。慈悲喜捨の瞑想をする。あなた方も幸せでありますように。