馬越康彦の日記

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父の思い出 あの威圧感は何だったのか?こころの力

愛媛にいても、東京へ出てきても、日々怖い思いをしている。だが、もうどうあっても生きていこうという気が無くなってから、諦めというより、不思議な落ち着きが出てきて、今まで震え上がっていただけなのが、冷静に現象世界を眺めていられる。

現象とは何?現象の正体は?と、ここ数ヶ月ずっと問い続けてきて、それが無常で無意味であること、一時的に因縁によって成り立つもので、苦を離れて涅槃を正悟する者は、現象を放っておけ、現象から離れよ、現象は泡沫(うたかた)、夢・幻にすぎないとブッダに教わって、それこそ眼、耳、鼻、舌、身体、意が色、声、香、味、触、法に触れて識が生じているだけと納得し、どんな音や色形も放っておくようにしたら、それなりになんとか流れていくようになってきた。

 

執着をなくし、やることが終わっているというのが大きい。もうあとは、体が寿命になるまで食事で支えるだけだという気持ちがあるから、死を怖がらなくなってきた。

 

思えば若い頃は、普通に怖がることが多かった。高校の時は原島君とか増田君、小坂君という友達と車で出かけた時、原島君の車に乗っていたらバイクの連中二十名くらいに囲まれて、原島君が笑っているのに、私はもうずっと前方の一点から目線を動かせず、どうなるのだろうと肝を冷やしていたものだ。

 

不思議なのは父であった。今の若い人たちはこぞって体を筋トレで鍛え上げ、その筋肉が喧嘩の時に役に立つと思っているようだが、そして私はそうなのかどうか知らないのだが、父は私が子供の頃から見ていて、一度も肉体を筋肉粒々に鍛え上げることはなく、背は私と同じで、体重は50kg台であった。喧嘩しているのも見たことがない。

 

その父が、地方公務員という立場もあるのだろうが、局の若い者を連れて、やくざの事務所に水道料金の未納分を回収に行った時のことらしいが、のらりくらりとかわされたあとで、「払っていただけないならこちらもやることはやります」と言って、部下に向かって「ここの水道を止めちまえ!」と本気で水を止めた話には驚いた。

本当に止めたら向こうが「殺す気か?」と支払いに応じてくれたと聞いた。帰ってきてから、いつも以上に酒をあおっていたのを覚えている。

父は筋肉なんてのは信用していないらしく、幼い頃、愛媛県伯方島で散々な境遇で育ったために、他人を心底から震え上がらせる手段を知っていたようだ。もっともそれを使うことはほぼなかったが。

 

それを知ってしまえば、声ひとつで相手を震え上がらせることができるので、腕っぷしに頼る必要なく、その後の人生を歩んできたみたいだ。

 

3年半前に亡くなったのだが、亡くなる2年前はことのほか、すごい威圧感で、酒を飲むとそのオーラというのか、圧倒する雰囲気を、家族の私や母に向かって発していた。

当時私は、和やかに飲んでくれたらいいのに、なぜ家族団らんの場で、殺気を放つのだろうといぶかしく思いながらも、この皮と筋の老人のどこにこんな力があるのだろうと、それを知りたく思いながら、自分もまた禅定経験を得ていたので、その分析(禅定の分析)をしていた。

 

ヒカルの碁にも出てくる。「千年の答え」でsaiと塔矢名人が対局した時、名人が「この空気、この威圧感」と言って、前に新初段シリーズを幽玄の間で対峙した時の威圧感と空気を対局中に思い出していた。

 

そうこうするうち、私は父のこの力の秘密を知ることなく、父は敗血症であっけなく亡くなってしまった。

 

気ひとつで、相手をビビらせて、同席している私は、父の方に顔を向けることもできず、夕飯を食べているというのに、怖くて箸一本動かせなかったのを覚えている。

 

父のこの破壊的な力に似ているなと思ったのが、花村萬月氏の「真夜中の犬」に出てくる、資本論を読むインテリのやくざだ。事務所でこのやくざが「あ?」と顔を半分あげたら、青年の主人公(みつる?みつぐ?)は体が動かなくなってしまうのだが、あそこの部分(硬直しちゃうところ)が父の威圧感と似ている。動けなくなるのだ。

 

今父が生きていたら、私は箸を動かせるのだろうか?唾が乾いて、固唾をのんで、やはり動かせないのではなかろうか?学歴とか筋肉の力とかと異なる、この幼稚なようで、やくざ者が持っている力、それは今でも不思議な力である。

 

*この力に覚えがある。仏典に出てくるアングリマーラ長老がその人である。アングリマーラ長老は999人を殺し、その指を首輪にして飾っていたのだが、コーサラ国王が兵隊を向けても、アングリマーラ長老が、「おい、おまえ、動くな」と言うと、みんな動けなくなり、馬や象はふるえておしっこを漏らしたというから、けたはずれの力である。いくら兵力を持っていても、「お前!」と言われただけで兵隊が皆動けなくなってしまったら勝てない。

詳しい話はブッダラボに譲るが、お釈迦様が神通力を使ってアングリマーラ長老に説法しなかったら、誰も止められなかったかもしれない。世の中にはおそろしい力がある。

今の人たちはこうした力ではなく、実力行使する筋肉と武器の物理的力頼みである。唯物論者なんだね。イージスアショアとかそういうものによる物理的軍事力の計算。昔(精神力に頼っていた戦前)の日本人の真逆。

 

因みに仏教ではこころと身体(物質)ではこころ(精神)が優先である。ダンマパダでも、こころがすべてを決定すると最初の偈で説かれている。スマナサーラ長老の本にもある。釈尊ジャイナ教のトップメンバーと、こころ(意)と身体のどちらのカルマが重いのか会話した時、身体であるというジャイナ教に対し、こころであると釈尊が説諭して仏教に改宗させてしまうのだが、その中で、ある街に剣の達人が数名赴いて残虐に住民を殺戮するとしたら、それは可能であるかとの釈尊の問いに、ジャイナ教徒は「それは無理である」と答えるのだが、ではあなたはインドの中にある4つの人の住むことのできない荒れ地を知らないのかと釈尊が重ねて問うと、「その話は知っている」とジャイナは答える。それは昔修行を積んだ仙人を庶民がバカにしたところ、怒った仙人が心の力で、当時人々の往来の盛んな大都市4つを呪って草木の生えない荒れ地へ変えてしまい、それ以来釈尊の時代までも荒れ地のまま人の住むことのできない土地であり続けたという話である。剣や武器をもってしては滅せない土地を心の力なら瞬時に滅ぼすことができたという話である。

 

 

*更に昔の話になるが、「ゴッドサイダー」という漫画に、パズズという邪神がアラビア半島をオームという呪文で一瞬にして壊滅させたという話があるが、あれはこころの力ではなく呪文の力を話題にしたのだろう。

 

 

スマナサーラ長老は漱石の「こころ」を読んでがっかりしたというが、無理もない。こころの力について、釈尊が解き明かしたものをすべて知り、こころについてのアビダルマの徹底的な解析を知り尽くした長老からすれば、漱石の「こころ」とは何なのかわからないだろう。こころについて何をわかったのか、あなたはと。日本人の私は、小説としては好きなんだけどね。新潮の100選にもなっていたし、昔の学生の必読書だったから。

 

 

コロナで世間は荒れ狂っているから、誰か傑出した人間が出てくる機会かもしれない。言葉一つで軍隊を止めるような奴が。実際昔はいたのだから。そういう人が。

 

参考

thierrybuddhist.hatenablog.com