馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

心霊現象 気が付くとカルマ(業)を相手にしていた

昨年暮れ、東京の小平市で、すい臓がんの母を自宅で看取る頃から始まった恐ろしい心霊現象の数々であったが、ここ福山市で総括の時期を迎えている。

 

それにしても世間でとりあげられる霊的現象というのは、私の体験したそれと比べると、震え上がるには程遠い茶番劇のような代物であったり、あるいは心霊現象とは縁遠い、まったく関係のない、作家が頭の中でこねくりまわして編み出した(捏造した)にすぎない事象を小説に著し、その映画化されたものが公開されたりと、一体どれほどの人が本当に心霊現象と呼ぶに値するものに出会っているのか、はなはだ不安を覚えながらも(世の中では怖いもの見たさが増殖する夏休みに流行る、ホラー映画とかで扱われるあの種の恐怖が心霊現象であると誤解されてはいないだろうか、たとえば思い(恨み・怒り・怨念等々)がいつまでもその地や家に残るとか、それ本当?と疑ってしまうようなことがア・プリオリに当然なものと前提されているのだが)、心の問題であるととらえた前回のブログを敷衍して、カルマ(業)論に行き着いた私の見解をのべてみたい。

 

 

釈尊がマーラ(他化自在天という六欲天の頂点に君臨する神で、現象世界、欲界を欲しいままにする神)とは別に、もっとも恐ろしいものとしてとらえていたのは、他でもない「こころ」の問題である。

 

この「こころ」こそ、心所であり、無数に乱立していて、いつもお互いに殺し合いをしているいくつもの「私」を構成している個々の「私」であり、実はこの「こころ」がカルマを忠実に引き受けて、みなさんを天・人間・畜生・餓鬼・地獄の五道へと輪廻転生させる力の主体であると、私にははっきりわかった。

 

「こころ」と聴くと、何か自分に近い存在、自分に親密性のある、最終的には自分を助けてくれるものを思い浮かべるかもしれないが、「こころ」はそんな友人のような存在ではない。それ、つまり「こころ」は恐ろしい第三者的存在で、この「こころ」こそ、どんなことでも現象化する力をもつおそるべき存在なのである。

 

 

スマナサーラ長老の本にもあるが、こころの中に、トランプ米国大統領と米国を最も憎むウサマ・ビン・ラディン氏が不思議なことに同時に存在している。こころの中に不倶戴天の相反する磁石のN極とS極が同時に存在している。我々の心が普段米国寄りに行動しているのなら、それをことごとく否定する対極の存在も心にある。にわかには信じられないでしょうけど。これがどういうことかわからないが、我々を攻撃する。「殺してやる」とはっきり私は言われた。自分の心に、である。漱石先生は私も尊敬するが、「こころ」はあの小説「こころ」が及び難いほど複雑でおそろしいもの。こころの中のこの対極的存在が、地獄に落ちると地獄の獄卒として我々を引きずり回す。心が地獄を現象化する。それだけではない。似た心は互いに波長の合ったもの同士で引き寄せられる。地獄に落ちる生命はみな引き寄せられるように集まって、お互いを殺戮しあう。餓鬼とか畜生の世界もみな同じ仕組みで成り立つ。絶対自分は悪事を隠しおおせると思うでしょう。100%無理です。政治家や軍事組織のリーダーなどになったら目を当てられない。

 

ヴィパッサナーの瞑想修行の過程で行きあたる智慧の一つに「名色分離智」というものがあるが、修行者がもし私のように、「こころ」という敵に出会い、マーラの仕業かと思われるほどの信じられない現象の数々に遭遇すると、名(こころ)と色(物質)という二つに分類していた智慧が、「結局は「こころ」が「物質」をつくりだしているのだ」という、ナーマ(こころ)主体の偏向的な智慧に変わるだろう。

 

そして、この「こころ」こそ、われわれとずっと一緒に行動して、我々の行為のなにもかもを知りつくし、それゆえよく言われる我々の審判者、つまり閻魔大王のような存在になりうる唯一の存在であると気づくと、「こころ」は常に我々を評価し、審判し、「こころ」がつくりだす現象世界こそ、人間が地獄であると感じたり、餓鬼を苦しめる身体をつくり、われわれの意識をその世界の中に閉じ込め(ロックして)、カルマが尽きるまであらゆる苦しみをずっと生み出し続けるものではないかと理解し始める。

 

人間の身体をつくり、死ぬまでを管理するメインラインは令生業といわれるもので、人間に限らず五道の生命も、梵天もすべて、カルマ(業=「こころ」に蓄積された意志(チェータナー))を相続し、カルマのみが財産であり、カルマの導くままに生きる。

 

「こころ」の法則も「カルマ」の法則も、釈尊の発見したものであるが、どちらも一般の我々には知り尽くしえぬものであり、もし知ろうと欲すれば、気が狂うといわれる代物である。

 

私が悪霊の仕業、マーラの仕業と思っていたものも、「こころ」がつくりだしたもので、つまり私は、過去の善悪の業(カルマ)の結果を受けていたにすぎない。29歳の頃より私に憑りついてきた悪霊とは、カルマであり「こころ」であり、これからもずっと私から離れないものである。

 

五戒を守った生活を送っていても、過去の私の行為の結果を、私は受けてきたのである。なぜ善因善果にならないのかと疑いの目を向けた因果法則も、起きるべきものが起きているという当然の理解に行き着く。

 

*因果法則は本当に難しいです。私は恵まれない団体に寄付を続け、両親の介護をし、酒もやらず、女はもちろん自慰行為すら控え、日夜慈悲の瞑想を実践していたので、悪霊に憑りつかれ悩まされてきたこの一年は、善因善果?悪因悪果?、因果法則って本当?という状態でした。本当か嘘か、私がカルマの法則(悪因悪果)を悪霊に説いた時も、「は?カルマ?悪因悪果?何かおれたちに悪いこと起きたっけ?」と悪霊の一人が他の悪霊に話している時は、自分でも「カルマって本当、嘘じゃない?」という情けない心理状態でした。原因が揃わないと、結果が出ないのです。そう簡単に、遠山の金さんが裁くように、いい人は栄え、悪人は打ち首とはいかないのです。感情で判断していると、法則はわからないのです。

 

 

この「こころ」が閻魔大王になり、地獄の従卒となり、地獄をありありとつくり続けるものである。誰も「こころ」から逃れられない。

 

我々は「そんな悪いことしてないのに」と愚痴をこぼしながら、「こころ」による行為の結果の審判を受けている。我々が思っているほど、我々の罪は軽くないようである。

 

悪霊やマーラが相手なら、「そろそろ勘弁してください」とお願いすれば、お目こぼしも期待できるのであるが、「こいつ、絶対許さねえ」が口癖の、「こころ」が相手となると、きっちりケツをとるまで許してくれないので、昨日より今日と、ひたすら人格を改善して少しでも良い人間へと変貌しながら、カルマが尽きるまで待つしかない。

 

今、政治や一部官僚の世界では、財務省の官僚が自殺した件を含め、いろいろ正義が捻じ曲げられているように見える。司法も裁かず、検察も正義を追えず、このひとたち、ほくそ笑んだまま裁かれずに終わるのかと嘆いておられる方もいるだろう。

 

私が今回経験した、悪魔より恐ろしい地獄の「こころ」は容赦せず、ただ何をしたか、何を話したか、何を心に思ったか、身口意の行為、それのみを判断材料にして、死ぬより恐ろしい苦しみを運んでくる。笑って地元後援者と〇〇御苑で桜を見ていられのも・・・。それ以上はおそろしくて言葉にできない。

 

これは私が他の沙門やバラモンに聞いたことではない。私がこの目で見て、この耳で聞いて、私が体験したものなのです。