馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

読まず嫌い?鴎外 舞姫と山椒大夫を読んで

朝が温かい時は、起床後、近くの芦田川を1時間半かけて散策し、帰宅後昨年より10キロ太ってしまった(それも中年や初老らしくおなかがぽっちゃり)腹囲を引き締めようと腹筋運動をしてからシャワーを浴びていたのだが、福山も朝の冷え込みが厳しくなったここ半月は、起床後掃除と洗濯をすませながら、仏壇に果物、冷水、ご飯、酒を備え、焼香して、スマナサーラ長老の「ブッダの日常読誦経典」をスマホのアプリで再生し、長老に合わせて声を出して2時間ほど読経、その後テレビをつけ、YOU TUBEで「慈悲の瞑想フルバージョン」を流し、その後1時間座る瞑想をするという僧侶のような生活を送っていたが、ここ数日はなぜか頭の中で「安寿と厨子王」が思い浮かび(一度も読んだことがないのになぜか気にかかる)、青空文庫で「山椒大夫」を読んでみたら大正解!

 

なんでこんな面白いものを読まなかったのだろうと後悔し、続いて「舞姫」、さらに「青年」へと進んでいる。あらためて思うに、森 鴎外はすごい。マジックリアリズムとか立ち入る必要はないやと思いながらも、読むものがなくなったので、少し読んでみたが挫折。時代が違うのかな~と人生の終わりに差し掛かったわが身を顧みるも、することがない。掃除や洗濯は大好きなのだが、時間が余る。

仕事は介護の仕事をしようと、2か所ほど、デイサービスのパートタイマーを希望するも落選。つくづく「もう仕事をしなくていいよ、そんな暇があるなら悟ってよ」というようにカルマ(業)に導かれているような気がしていた。

 

話が脱線したが、鴎外の作品は本当に面白い。すべて原文で読むのだが、舞姫などキレッ、キレッのリズミカルの文章で、「すごいな、誰もかなわないよ」とため息が半分、面白さゆえにぐいぐいひきこまれ、どうなっちゃうのだろうという興味とも怖さともつかぬ気持が半分で、一気にもっていかれる。
こういう作品は、現代日本文学にはない。自分は40代の頃、少し小説でも書いてみようかということで、その当時の直木賞やら芥川賞の作品などを相当数読んだのであるが、妄想文学ばかりに落胆(花村氏と南木氏のみ別だったかな?)。俺の方がおもしろいといい気になっていた時期があるが、鴎外とか菊池寛など読むと、「そういうように(作家になるように)定められている人がいる」と納得して、すなおに撤収した。

 

青空文庫にはまだまだ一杯、文学作品がある。鴎外のいた当時の日本と現代日本。誰でも小説を書くようになった現代からは想像できない文学本来の面白さ、可能性などがひしひしつたわってくる。官僚というのが当時どれほどすぐれていたかの証左でもある。鴎外や芥川をうみだす高い精神的土台が当時の日本と日本人にはあったのだろう。

 

当時の東京大学というものの、すごみというか「敵わない」という脱帽の気持ちがよみがえってきた。自分が浪人時代、河合塾の池ノ上校舎で東大受験科にいた頃、東大の先生で古文を教えていらした方が、昼休みにアイスを気合の入った顔で食べているのを見て、「なんで気合を入れてアイスを食べるの?」と思ったが、あのくらいアイスを食べるのにも気合を入れてなんぼの人生だったのであろう。今や、金と政治の力に屈して、世間一般人の推察できる凡庸なレベルにまで落ちてきてしまった。

 

なんで日本はこんなになっちゃったのだろう? あらためて疑問に思う。