馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

幸せになる法則② カルマをコントロールする

コロナにはじまり、コロナに終わる一年であった。私自身は今年だけで引っ越しを3回おこない、一年の三分の一をホテルで暮らす生活を送った。

秋以降、役者さん・俳優さんの自殺が相次ぎ、女性の自殺者の増加が続いている。

80~50(はちまる、ごおまる)問題のひきこもりの人口が100万人といわれ、隠れ失業者はリーマンショック時の355万人を超えて517万人(7月18日時点)、就業者6,694万に対し、雇止めは7万3千人にのぼり、完全失業者は215万人との数字が報告されている。

 

子どもの貧困率は7人に1人で、シングルマザーの風俗やパパ活などでの売春が盛んになり、出会い系アプリなどを使ってのオンラインセックスなどのサイバーセックスにのめり込む者が後を絶たないようである。

 

国会議員の定数削減はまったく行われず、自民党議員による不正献金収賄参院選での票の買収行為が裁かれ、IR(統合型リゾート施設)を進める過程でのカジノ関係者や、はたまた福山の養鶏業者などのいたるところから、大臣や議員が金を吸い上げている実態が浮き彫りになっている。桜を見る会森友・加計学園問題、公務員が公文書の改ざんを強要され自殺する事件、検事の賭け麻雀、レイプを犯しても裁かれない事件などなど、この世は末法の世の様相を呈している。

 

こういう中で、他人様のカルマを口にすることは絶対にできない。「あの人が不幸になったのは、過去で悪いことをしたからだよ」などとは断じて言えない。というか、わからないのである。他人のカルマまで分かるのは釈尊だけであり、釈尊以外の人に他人のカルマは語れないのが道理である。

 

が、自分のカルマは「ああ、だいたいこういう流れで、こういう善悪の行為がこういう諸々の結果につながっている」というのは、56歳の自分にはなんとか見つかりそうである。それまでカルマがまったくわからなかったので、善因善果や悪因悪果すら、本当かいな?という疑いがあったのだが、今の自分の生活が、何に起因して成り立っているのかは割と分かりやすく、冷静に受け止めている。

 

その上で、私からこの記事を読む皆様にアドバイスするとすれば、まずお金とモノの法則である、いわゆる「与えてから得る」というギブ&レシーブが第一である。

 

 

私は恵まれない方たちへの寄付行為を何年か行っているが、スマナサーラ長老のおっしゃる通り、自分にモノがなくて困るという事がない。いつでも自然にモノが揃ってしまう。そうすると余分なモノやお金を他人へ譲り、それがまたモノや金が揃う原因となっている。これは釈尊の発見した因果法則という真理のアプリケーション(応用)であることは確かだ。ただ実行しようにも、あげるモノがない場合もあるだろう。

 

 

なにもモノやお金がすべてではない。自分のもつ能力を他人の用に供しても、同じ結果が得られる。これは騙されたと思って是非試してほしい。社会に必要な人間になれば、いわゆる経済社会でいうところの「倒産」はなくなる(もしくは個人レベルでの「破産」)。

 

 

社会のほうで、「こいつは世の中の役に立っているので、生かしておいてやろう」という話になる。これで自殺せずとも、社会で生かされる人生が送れる。お金やモノを自分のものだと思って囲い込んで貯めこむと、それは自分の元から去って行ってしまう。詐欺やら強盗に遭う可能性も大である。

 

そうではなく、アナータピンディカ長者(居士)のように、孤独な者や、修行者、サンガ(僧団)などに布施すると、徳が高まり、絶対に損をしないのである。

自分の中にモノを得るというポテンシャルエネルギー(潜在能力)が貯まるのである。

そうなると、そのエネルギーにしたがって、モノや金がはいってくることになる。

 

これは不思議に思えるかもしれないが、真理(因果法則)という法則通りの行いなのである。実行してみれば、「引き寄せの法則」以上の結果が得られるはずである。

 

それ以外は、十悪を避けること。つまり十善を行うことである。私も在俗信者なので性行為をするが、他人の妻と交わったりすれば、それは蜜のように甘く誘惑的であるが、身の破滅につながることは間違いないと知っている。

 

これをすれば豊かになり、これをすれば不幸になると知ったうえで、わざわざ身の破滅につながる悪行為はしないものだ。自然にそうなる。人が悪行為するのは、行為には結果がついてくることを知らないで、何をすればどうなるのかわからない(それは無明だからなのだが)から、悪事を働くのである。

 

また不思議にも、カルマの働きで、そういう不善な行為から身を守られるのである。友達は私を見て、「三宝に守られている」というが、私は「カルマのなすままである」ことを知っている。自然に道を踏み外せなくなっているのである。無理に踏み外して悪行為をしようとしても、ことごとく不首尾に終わる。これは本人にもとても不思議に思えることだ。

 

世の中が、世の中が(悪い)、と人間は人生の責任を社会に向けたがる。しかし、自分の人生の操縦かんを握っているのは自分(の心)である。自分が自分の人生のディレクター(監督)なのである。