馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

統合失調症・線維筋痛症・多重人格・・・心で解決しうる病 ②

線維筋痛症・・・私の場合、発端は右腕の肘(ひじ)の痛みであった。痛くて右を側臥位にして寝たり、寝がえりをうてない日々が始まる。手が持ち上がらなくなり、利き手が右のためシェーバーや洗顔、タオルなどが使えなくなり、苦労しはじめた。五十肩というものなのかと思ったが、肩ではなく肘が痛む。整形外科を受診し、痛み止めをもらい検査していただくが異常なし。帯状疱疹ができていないかなどチェックされる。

 

やがて左手の人差し指をライターか何かで熱せられたような痛み、胸を氷の刃かガラスの破片が通過するような激烈な痛みが発生し始める。これは五十肩ではないなとネットで症状から病名を推測する。同時にドクターショッピングが始まる。家の近くの整形外科を受診し、病状を告げ、詳細なレントゲン写真を撮る。診断がつかず、リリカカプセルなどを処方される。刃物で胸をチクチク刺されるような痛みも発生。痛む箇所が日によって変わり、転移するようになる。苦痛で顔を歪め始める。

 

漢方にも頼った。以前めまいがひどい時に漢方で完治したのを思い出し、漢方外来に足を運び、漢方を処方されるも、効かない。肩凝りを指摘されエビぞりを薦められるも、痛くてできなかった。

 

リリカカプセルが効かず、順天堂大学病院をお茶の水に尋ねたのはゴールデンウィーク前であった。レントゲンを撮ってもストレートネック以外に何も出てこない。肩凝りの体操の本をもらって帰った。

 

ぼちぼち線維筋痛症を自分で本気に疑い始める。ヤフーの知恵袋で質問しても、線維筋痛症だとの回答があったが、医師の診断名がおりない。順天堂は総合診療科にて血液検査なども行うが異常なし。これ以上何もできないので、来ないでくださいと言われる。

 

最初は右腕が上がらなかったのが、この頃は左腕をずっと上げていないと腕の納めどころがなく、肘から先を顔の前にたたんで、「ハイル・ヒトラー!」などと家人の前でおどけていたが(右手と左手が逆なのだけど)、何も治らないこと、病名がわからず先に進まないので、不安に押しつぶされそうな毎日であった。

 

痛みが半端なかったので、近くのペインクリニックを探すと、三鷹でヒットする。神経ブロック注射を首に行うが、効果なし。トラムセットを処方されるが、薬価の高さに驚く。ただし、これは効いた。その後三鷹にペインクリニックがなくなったので、武蔵境に開業した医者を頼りにする。そこで合成麻薬(フェントステープ2mg)を痛み止めとして使い始める。

 

以上が大まかな経過で、このあと慶應義塾大学病院でのMRI検査、血液検査などがあるのだが、結論からいうと、すべて異常なし。ここ(慶應)でも診断名がつかないので、その後医者に頼らずに「慈悲の瞑想」で治るのだが、もし「線維筋痛症」であったのならば、「慈悲の瞑想」は治療のひとつの手段であると思う。また以前にもその旨、お伝えしたかと思う。

 

肝心なのは、病の原因が心にあること、私の言うサブパーソナリティ(サブ人格)が身体に刺激を与え、その刺激がたとえようもない酷いもの(身体の血管を針が移動するとか、手足を火で炙られるとか)であるところのその原因は、サブ人格という心がつくっているのだということを忘れてはいけない。神経伝達は化学反応で起きると考えられているが、私の経験ではサブパーソナリティという心は、化学反応そのものをつくる。刺激を脳へと伝達するのは化学反応の力であり、脳がそれを感じ取り、心が痛みや心地よさ、甘い辛いなど瞬時に変換して味付けをする。心が味付けを行います。この部分をサブの人格が握ってしまうので、針が血管の中を移動したり、手足を炎で炙られたり、胸の中で小型の爆弾がぽんぽこ爆発するといった線維筋痛症のあのたとえがたい激烈な痛みは、まさに心がつくりだす痛みそのもの。本来あり得ない痛みの感覚である。

 

サブのこの人格は、何者か?それもまた、過去世で誰かのメインであったパーソナリティ(人格)です。ですからそれは、まったく第三者的な人格です。なぜこうしたメインと正反対の人格が、我々の心所が瞬間瞬間溶け込む心(チェータナー)から出来上がるのかと言えば、これは私の推論ですが、真逆のものの存在があって、はじめて「私」という本来無我の存在は、何とか生きていけるという事だからではないでしょうか?世界がブッシュ大統領一人だとうまくいくかわからない。ブッシュと真逆のウサマ・ビン・ラディンという存在もあっての世界ではないでしょうか?本当は私もよくわからないのです。では、このサブの人格も、人間という稀有な存在に生まれついた徳の高いものなのか?残念ながら人間に生まれてきて、その誕生をもたらした業(カルマ)はメインの人格のものです。つまり、人間として生まれてきたのはメインの人格だけのようです。サブの人格もメインと一緒にいろいろやります。それは、このサブの人格のカルマ(業)となって、次の転生先が決まっていきます。

 

 

この肉体を「私」というメイン人格のみならず、複数のサブ人格も同じ様に使っていることが分かると、「私の身体」という思いが薄れ、心と身体がはっきり分離する。「私」が寒いとは言わず、「身体」が寒い、「私」に熱があるのではなく、「身体」に熱があると、口をついて出てくるようになる。「心」と「身体」を完全に分離して捉えられるようになります。

 

これまでも「名色分離智」はわかっていたのかもしれないが、ようやくこの段階で、心がつくる身体というものが手に取るようにわかり出す。テーラワーダ仏教は、ここで自分の体の分身をいくつも作り、地面の中に潜り、水の上を歩き、壁や塀を通り抜け、空中に浮かび、太陽や月を触ってくる、梵天界に姿をあらわすなど諸々の神通力を語っている。やるかやらぬかは皆さん次第である。

 

そこを通り抜けると、三明(宿命通・天眼通・漏尽通)の世界が開ける。