馬越康彦の日記

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生滅智を通して知る因果法則のすごさ

仏教では因果法則を知ることがすべてだと私は思います。すべて起きるべきことが起きている。現象というのは因果法則によって起きるべきことが起きているのだと知ることは、現象とは何かという問いに対する究極の答えであり、この答えにたどり着くと、現象に対して不平や不満、期待や希望を抱くことがなくなり、ごうごうと燃える山火事が滝のように降り注ぐ雷雨によって鎮火するように、期待や希望・不安から燃え上がることはもうなくなり、山火事の消えた後の安定した安らぎの中に入ることができます。その安らぎは因果法則を身体で理解しないと得られません。現象という魔術(マジック)のネタがばれてしまった人には、もうその手品は通用しません。

釈尊が究極の悟りを得た後に、このことを非常に感嘆して語った偈がありますが、もうこのブログで何度も取り上げたので、ここでは載せません。

 

因果法則がすべてだと思い知らされたのは、生滅智が生じた時です。私の場合は極限にまで感覚を研ぎ澄まし、ものすごく集中して身体をサティしている時に、食道がすごいスピードで消えて現れ、消えて現れるのがわかったのですが(いわゆる因の身、果の身とよばれるもの)、消えた食道が再び元のように現れるのは原因と結果によるのだ(因果法則によるのだ)と思い知ったとき、震え上がる思いでした(消えたら消え放しでもよいのに、再び前とそっくりに生じるのは原因と結果の関係、つまり因果法則が作用しているからです。普通の人はここまで瞬時に物や心の生滅を見られないので、食道がずっとあり続けていると思っている。実は身体は瞬時に消えて、また瞬時に現れています)。

 

エホバ神やアッラー大日如来や観世音菩薩が宇宙の法則の根源ではなく、原因がそろえば結果が生じるという因果法則が、この現象世界のすべてであるとわかることは重要です。

 

「あれが正しいのではないか。こちらの真言や祈りや読経が本当かもしれない」などという一切の疑惑が、跡形もなく遮断されます。この世の仕組み(因果法則)が分かるわけです。

 

これは仏教をいくら勉強してもわかりません。ものすごい智慧なのです。学者や評論家や在家の日本のお坊さんたちが仏典に学び、いくらせっせと寺を掃除し護摩行や千日行をしても、さっぱりわからないものなのです。ですから釈尊は真理を体得せず学問のように勉強しているポーティラさんに、「からっぽのポーティラ」と名付けたのです。この話も過去に何度も取り上げたので、もう載せません。

 

5つの法則があります。1.自然・2.遺伝(コピーの法則で種子)・3.こころ・4.業(カルマ)、5.法(ダンマすなわち因果法則や無常・苦・無我)の5つです。よくダンマを自然と勘違いしている人がいますが、勉強不足です。仏教は自然主義宗教ではありません。本来みなが仏だとか、すべてに仏性が宿っているとか、そういう非科学的な妄信や信仰ではありません。仏教は科学よりも科学的なのです。

 

よくフェイスブックとかに、アーチャン・チャ長老などの著書の文を載せてご満悦している方がいますが、阿羅漢の言葉を載せると、自分が話したことのようにうっとり酔いしれて、気持ちよくなって、「みんな、これがダンマだ」と誇らしくなるのはわかります。自分も同じでした。そういう方を散見しますが、仏教の智慧はそんなことでは生じません。それほど甘くないのです。頭で理解するのと身体の骨の髄でつかまえるのとでは、雲泥の差なのです。

 

またスマナサーラ長老の教えや、アーチャン・チャ長老の教えあるいはウ・ジョーティカ長老の教えを、ちゃんぽんして仏教に酔いしれている方もいますが、この人と決めたら、一度とことん、その人について行くことを薦めます。理論体系や学び方が首尾一貫しないからです。

 

日本の僧侶はあまりお勧めしません。瞑想で結果が出ないので、そちら(日本の僧侶)に付くのでしょうが、定評のある外国の僧侶が間違いありません。とはいえ、パンデミックの大流行とミャンマーでの軍隊の乱圧により、修行の場が限られてきてはいますが・・・。

 

脅すようですが、悟りはそれほど甘くありません。自己を徹底的に観察してください。お勤め(行)は悟りと一切関係がありません。頑張ってください。