馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

YOU TUBEはじめました!

YOU TUBE始めました! その名も「霊体験と禅定世界」。最初はタイトル通り、霊体験(マーラとの闘いの日々)と禅定についてのみ話すつもりでしたが、チャンネル登録者なし、再生回数一桁の不評ぶりに、対象を広げ、仏教全般について話していくことにしました。
最初は何を話してよいのか、動画編集の仕方もわからず、声は上ずり、のどが渇いて声が続かないなど、ハプニング続出でしたが、6回収録を終え徐々に慣れてきました。
ゆくゆくは英語でこの内容を話せるようになって、英語圏の海外で瞑想指導者として人生を終えるつもりです(笑)。
みなさんチャンネルに遊びに来てください!
それにしても動画映りが悪くて焦りまくりです(汗)
 
 
 
 

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妄想を止める、サティをいれる、この2つで修行が完成する

 巷ではワンネスが流行っているようです。我々はもともとは一つの宇宙意識の参加構成員であるとか、まあ平たく言えば、昔の梵我一如(アートマンブラフマンが同一であること)に同じか、それに近い考えであるようです。

 

 それがどういう状態であるかと言えば、心の波が一時的に消えて、他の生命もしくは非生命と自己を区別する垣根が消え去り、「我々は生命も、非生命も、すべて同じもの、この宇宙世界に存在しているすべては同一であり、同じ意識の下にあって肉体あるいは形のみが個々においてばらばらに結果表出しているにすぎない」という一体性の喜悦感を味わうものと私は理解しています。

 

 Non duality(自己同一性とか不二一元と訳すといいのだろうか?)とよばれる境地です。

 


 梵我一如とかワンネスは心の波が一時的に消えることによって得られる境地で、それは確かに高度で、昔でいうところの仙人などの限られた修行者の到達する境地ではありますが、仏教的な見地からすると、残念ながらそれは悟り(心の波を一時的ではなく、完全に消すことによって現れる涅槃(ニルヴァーナ)を知り、現象世界(宇宙世界=仏教でいうところの名色(ナーマルーパ))を去って、完全に苦(dukka)を滅する状態)への長い道のりの一里塚であると、釈尊は説明されています。

 

 

 その一体感は、心の波が消えているときの一時的なもので、日常生活に戻ればまた心は波型の波形で活動を始め、味わった一体感も過去のものとなります。

 

 

 修行はそこから、無色界禅定4つを修習し、非想非非想処定というきわめて困難な、心(想)があるともないともつかぬ、もう心(想)がほとんど活動していない状態を経て先へ進むはずのものを(お釈迦様は2,3日でマスターしていますが)、それでも禅定(サマタ瞑想)では心を止めきれなかった(心の波を消せなかった)釈尊が、6年間の遊行で、ヴィパッサナー瞑想による智慧(名色分離智や縁摂受智や生滅智などの十六観智)を身体・感覚・心・ダンマの4つにサティ(念)を入れ続けることで得て、ようやく煩悩を消し去る(悟りをひらく)ことができた訳です。

 

 

 その時(悟った時)は、因果法則をはじめ、心の法則、カルマ(業)の法則、種子の法則、自然法則の5つをマスターし、智慧が完成した喜びのから、何日間も座る木を変えつつ、瞑想に浸り続けていらっしゃった訳です。

 


 ワンネスも優れた境地ではありますが、そこで足踏みしていてはいけません。そこはまだ出だし。はじめの一歩。その更に遥か先に苦の完全消滅、輪廻転生の終わりがあるのです。

 

 妄想を止める。サティを入れ続ける。たったそれだけのことがこの道のりの指針であり、キーワードなのです。

少子高齢・多死社会の日本を100年にわたって幕引きする若者たち

日本は2060年には人口が8600万人へ、2100年には5000万人を切ってしまうと言われている(『人口減少の見通しとその影響』 平成27年版厚生労働白書より)。
人口が少なくなれば、お化けのように所得が倍増・3倍増と増え、それが恒久的に続かない限り、日本の総所得・総需要・総供給(労働人口など)は人口減少に合わせて、右肩下がりに落ち続けることは疑いのないところだ。

国際社会では電気自動車(EV)と再生エネルギーが6G(第6世代移動通信システム。現在は5G)、7Gの社会でのプラットホームで、どこの国もそちらに右に倣(なら)えである。輸出産業の花形であった自動車などは完全に脱落すると予想されている。

 

そもそも日本人の8割が中小企業に勤め、英語など学校では習うものの、話したり聞いたりすることは、ほぼない。コロナ前にインバウンドの増大で外国人が観光客として入ってきたが、日本人の商売は基本的に日本人が相手で、国内マーケットがほぼすべてである。
ニュースなども国内のニュース(NHKと民放)ばかりで、BBCやCNNなど聞く暇も必要もなかったであろう。

 

それだからというわけではないが、日本は取り残されてしまった。30年前は「Japan as NO.1」であったが、今や世界の中の貧困国家となり、女性の社会進出は遅れ、自殺率は先進国の中でも異様なほど高い。国際社会の動向など気に留める暇も必要もないまま、30年が過ぎ、経済成長のない珍しい国となってしまった。エネルギー政策の転換ができず、現金決済がかなりの割合を占め、デジタル技術がまったく活かされていない状況から、東洋のガラパゴスと化し、貧困国となった今、G7(先進7か国首脳会議)に顔を出していいのかためらわれる。

 

とにかく人口減少とプラットホームからはずれた産業衰退は既定路線となったのだから、人口が3000万人で落ち着くのか、2000万人まで減少して落ち着くのかわからないが、そこへたどり着くまで、少なくなる若者が老人を見送り、さらに自分の死を準備して、自分たちよりさらに少なくなる若者に看取ってもらうという、戦線撤退の最前線を担ってもらうしかない。

 

ある者は日本に見切りをつけて、海外へ出ていくであろう(有名人やミュージシャンの一部がそうしているように)。そうしてさらに減少は加速するであろう。両親2人を一人で見送った私の素直な感想は、「大変だ。金がなきゃ無理かも?」である。

 

兄弟とかその嫁の助けなど、まったく望むべくもない。しかも彼らのつくりだす子供の大半は私と同じく、両親を見取り、自分は独りで終わるように、人口減少社会の戦線を撤退していく。縮小が縮小を産む縮小再生産社会だから当たり前なのである。

 

赤字国債は償還するどころか、今後戦線を縮小・撤退する日本の若者には、せめて金がなければ日本社会の縮小衰退を平和的に維持・実現するのは無理なので、国際社会の協力と信任を得て、今の何倍もの借金を背負うことを認めていただかねばなるまい。

 

移民を入れるなどと高所からアジアを見ていたのも、今は昔。中国などに併合されないように、身売りするときがくるかもしれない。いっそスイスのように永世中立国を宣言して、武器を一切放棄し、国防費を無くしながら、なお自国の中立的立場を保ちつつ外患をなくし、内憂である国内衰亡を耐えながら、ゆるゆると人類史の歴史から頑張って消えていく(薄まっていく)の一手しかない。

 

戦線を縮小・撤退するのはそれなりに大変なのである。人口が減少していけば、イノシシや熊はもっと人里まで下りてくるであろう。少ない人間が、どこに集まって暮らすか、電気・水道・ガス・道路などのインフラを、どこを捨ててどこを維持するか、国民参加で総意の上で決めていかないと、すぐにあれよあれよと人が消えていってしまうだろう。

意識がぶっ飛んでいる――――その時心は消えて現れ、意識は不連続となっている(心の生滅)

ヴィパッサナー瞑想により、心を観察していると、「あれ?意識がここで飛んでしまっている。明らかにこの飛んでいる前と後で、心は連続していない(つまり不連続で、ここで(この瞬間)心は消えて、また現れている(生滅している)、こうやって消えてまた現れて、不連続ながらつながっている(連続している)ということがわかります。

 

ぶっ飛んで意識が切れるの嫌だからと、ずっと辛抱して意識が切れないように心を(あるいは呼吸を)観察してみてください。それは無理です。必ず意識が飛んでしまうのがわかります。「あれ?今切れたよ。わかんなくなっちゃったよ」とわかります。ここで切れている。また切れている。ぶつぶつと年がら年中途切れていることが、はっきり分かります。ものすごい速さで心も瞬間瞬間死んで生まれているのです。

 

以前私はヴィパッサナー瞑想で、自分の食道が点滅するように消えて現れているのを発見しました。心も同じなんです。

ここからは至極当然な類推になりますが(こうやって疑う余地のないところで智慧が生じます)、モノも心も、つまり世界は全部ぶちぶちと途切れて現れて、不連続なものが連続して、現象としてつながっています。私は観察対象を他者の心と食道(身体)にすれば、同じことが発見できるはずです。厳密にはここまでやらないといけないのでしょう。

 

我々は瞬間瞬間死んで生まれている。モノも瞬間瞬間消えて現れる。もう心もモノ(物質)も、有るわけでもないし(瞬間を取ると確かに消えている=無い)、無いわけでもない(瞬間を取ると確かに有る)。有るとも無いともつかぬものが、因果法則によってつながっているわけです。

 

とんでもない世界に我々はいます(いるのか、いないのかも断定できませんが)。このような存在、現象世界の真実を呪うべきです。

勝手に、いる(有る)と思い込んでいるのは我々の都合(感情)で、本当は世の中は全部消えて現れています。

 

ずっと存在する確かなものなどありはしないし、消えたのなら消えっぱなしでいてくれたら、それは「無い」と確定できるのに、またつながってしまう(生じてしまう)。これは恐ろしいことで由々しき事態で、安定できません。安定的に有るのでもなく、安定的に無いのでもないのです。

 

これこそ恐ろしいことで、安息できないことです。

 

我々は心(意識)が、消えて現れてと、不連続になっているのを認識するのが嫌なので、強引にずっと心(意識)は連続していると思いたいだけで、事実は消えて消えて消えて、現れて現れてまた現れてしまっている(生滅を繰り返している)のです。

心の声に殺されないで! それ本当に心の敵です

このところ統合失調症の記事の連続で、悟りのほうはどうなっとるんかい?という読者の方もいらっしゃるかもしれないが、今の私の関心事は、過去を鮮明に思い出すことと、今日もテーマにする心の中の無数の私(人格)なので、辛抱していただきたいです。

 

さて、統合失調症と言えば、ドーパミンという神経伝達物質の過剰分泌によって、異常セイリエンスの働きにより、巷のあちこちにあふれている音の中から、自分に不都合な音(自分を笑っている笑い声とか、自分のうわさ話をしているとか、自分の行動を非難する子供の喚き声とか)を脳が先鋭的に捏造して、それがリアル(本当に実際の人が自分をあざ笑っている)なものだという思い込みから、事態をさらに悪化させる様々な関係性(近所で私は馬鹿にされている。あの人は敵だ、など)の妄想が立て続けに引き起こされるというのが通説みたいで、このドーパミンの過剰分泌を抑制するのが、リスペリドン(リスパダール)などの薬とされる。

 

 

でも私から言わせれば、「ちょっと待ってよ」という状態である。なんで色々な音に特徴を付けて注意を際立たせるセイリエンスの働き(役割)によって拾い出すのが、時としてその人(統合失調者)に死を迫るような、攻撃的な内容に満ち溢れているのか?
それも本当にリアルな、同じ人間の声として聞こえてしまうのか?
そういった患者の実態に関しては、このドーパミン過剰分泌と異常セイリエンスでは何の説明にもなっていない。
実際に声が聞こえ、物が見えれば、それに引き続いて起こる疑いの数々は、正常な人間も普通に類推するものである(同じように罠にかかる)。
つまり問題は妄想より幻覚(幻聴・幻視)の部分である。でもそれは本当に患者の作り出した幻の声・幻の姿なの?
否・否・三度否!

それは本当の心の声なのです。過去記事から続いて何度も申し上げるが、私たちの心というのは、一つの確固とした絶対に変わらぬ永遠不滅の魂のような人格が常住しているわけではなく、無数の人格がつながりやすい他の人格と一緒になってチームを作って、チーム戦によって、この肉体をコントロールして、自分の好みの色声香味触のデータを得て満足しようと戦いを繰り広げているのである。
普段は同じ一つの人格がず~っとあるように感じられるし、戦いなど意識することはないのだが、メインの人格が何らかの不具合で外界との交渉に失敗し、世間とうまく渡り合っていけないと感じられるときは、野党である、心の中の他の人格が、ここぞとばかりに攻撃してくる。
これが幻覚の答えである。心の声だから、異常セイリエンスによって、外の音を加工して拾い出すこともあるし、意(心)が触れる法というデータから(ちょっと仏教が入っていてわからないかもしれないが)、我々は実際に音を聞いているのと変わらぬ認識をすることもある。
ベートーベンが聴覚を失ったあとどうやって作曲したかと言えば、心で音を再生して、それを聞きながら譜面を起こしたからである。
心は音を作り出せます。その心の一部が敵である野党の支配にあるのだから、幻覚という形で、リアルと何ら区別のない本物の人の声、人の笑い声、非難する声が聞こえるのです。
さて、これは果たして病気でしょうか?
これはどうみても病気じゃないでしょう。
統合失調症と言えば、心の弱い人が錯乱して、本当は存在しない幻の声を聴き、幻の姿を見て、それを現実であると思い込んで社会で迷惑を起こす精神薄弱者であると思われるかもしれませんが、それはイメージ先行の作り話です。
実際どういうことが起きているかと言えば、今申し上げたようなことが起きているのです。

病気でも何でもありません。心には私に敵対する無数の私がいるのです。事実はこの通りなのです。
精神医学が発展して、患者に対する誤解や差別がなくなり、この心の仕組みを、薬という化学物質で解決できる日を待ち望みます。

無我とはなにか?――― 統合失調者の観点から見た無数の私

私は統合失調症にかかって30年以上になるが、当初はいわゆる幻覚(幻視・幻聴)の原因は、実際に悪い人間が私をつけまわして、私の周囲で非難したり、音をたてたりしているものだと思い込んでいた。

 

統合失調症と判断されても、なお自分に危害を加える人間がリアルにいるのだという意識が変わることはなかった。このたび岩波新書の『統合失調症』という本を読み、患者の具体的な症状例を読んで、「あ、これは自分と同じである」とわかり、はじめて病識(自分が統合失調症であるという認識)が生じた。

 

思えばもっと早く、「こういう風に人の話し声や、うわさ話などが聞こえてくるのですよ」と分かっていれば、もっと早く病人であることを認識していたであろうに。実在する人間の攻撃にしてはあまりに不思議なことが多すぎるということで、私は人による攻撃の次に霊の存在(時には悟りの邪魔をする悪魔(マーラ)の存在)を疑い始めた。

 

そして、ソファに寝ている私をソファごと宙に浮かべて揺らしたり、グラスの中の氷を破砕(クラッシュ)させたり、私の見ている前で、便・尿・精液を床に垂らして見せたり、挙句は寝ている私の右の脛(すね)を切り刻んだりという不思議な現象の数々に、これは幻覚ではなく現実である、いったい何者の仕業なのか、悪霊であるなら除霊しなければと、各地で除霊していただいたが、なんら結果が出ず、「いいえあなたは統合失調症ですからそういう現象に遭うのです」という意見の下にリスパダールなどを飲んで一時的に症状が軽くなったり、それでも薬に慣れ始めると、再びどったんばったんと床を踏み鳴らす音が聞こえ、耳栓をして寝ると、耳栓を耳から強引に抜かれて、空いた鼓膜にどでかい音を叩き込まれるという目に遭わされ、――“「これは私という存在は無数の私が常に戦いを繰り広げ、私の身体の支配者になろうとしているのだ」”――というスマナサーラ長老のYOU TUBEの動画通り、

 

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私という確固とした唯一の変わらないもの(性格・人格)が永遠にあるのではなく、私というのは無数の私という人格の集合体であり、この無数の人格は相性のよい他の人格と組んで、いろいろチームを作ってチーム戦で戦っているという結論に達した。言ってみれば、私に対する私の反乱なのである。

 

二重人格とか多重人格とか分裂病(今でいう統合失調症)とは、戦いに勝ってはいるものの、主たる人格のチームが従たる人格のチームを統御できず(抑えられず)、本来代表者は主たるチームだけであるはずなのに、二つになったり(二つが代表になる)、いくつものチームが群雄割拠したり(無数の人格が一つの身体に宿る)という、その様子を表現しているに過ぎないという結論に達した(まあそのつもりで命名されているのだろうけど)。

 

私の中にいる無数の私(性格・人格)には、男も女も混ざっている。肉体は男なのに心は女であるなどというのは普通に当たり前であり、誰の心にも、どの動物・虫・神々・霊(餓鬼)・地獄の存在者など、生きとし生けるすべての生命の心は、無数の男女から構成されていて、その無数の人格もまた無数の人格から成り立っており、その一つ一つの人格(心)というのも、心の中にいくつかの心所が溶けて出来上がっており、結局因果法則にしたがって原因と条件がそろえば、無数の心(人格)も顕われたり消えたりしているのだということ、つまり私などという唯一の変わらぬ永遠常住のモノは、はじめから存在していないのだという仏教の結論はその通りに正しいことがわかった。

 

私の中にも男が2体と女が1体は最低います(昔はさらに別に男が1体いました)。これは男・女という性器の差ではなく、男に近い考えや声を持つ人格や、女に近い考え方をして、女の声を持つ人格がるということで、肉体が男であるか女であるかはさしたる問題にはならない。LGBTQの問題は、十分に普通で当然の話である。「何かをしたい私としたくない私の2つが同時にあるんだよね」などという話も、「その通りだよ。どちらの人格もあなたの中にちゃんと存在していますから」と、当たり前に認められる。

 

すべての心を持つ生命にこれは当てはまる。無我であり、男女の差というものはないのである。

 

また私の経験からすると、人々が霊障であると思っているものは、その人の心の無数の人格の為せる業であること、一般に幽霊を見たという時の幽霊とは餓鬼であること(餓鬼は藤本晃先生の『餓鬼事経』などを読むと、その土地(場所)に縛り付けられている存在(いわゆる地縛霊)であることがわかる。また心は物質を作り出すことができること、すべて物に先立つのは常に心であることなどを私は経験した。

 

 

映画『エクソシスト』などは代表的な統合失調症霊障である。私の中に別の私が宿って私を困らせるというのは、このタイプである。私の心にいる別の私は、私の身体に痛みなどの感覚を与えることができる。線維筋痛症などはこのタイプであり、統合失調症の薬が線維筋痛症の患者に効くのもそのためである。そもそも餓鬼(幽霊)に人間を困らせる力はない。彼らは自分の悪業でものすごく苦しんでいて、それどころではない。

 

統合失調症の患者に聞こえる音・声などは、゛事物へセイリエンス(顕著性特徴)が付与される"という説明がなされ(解説は控えます)、これはドーパミン神経系の役割であるということで、薬を飲んで過剰に働いているドーパミンをコントロールするわけだが、私の経験では、この薬の作用で、無数の人格の働きが弱められ、彼らが悪事を働けなくしていることであるという理解に立っています。

 

 

統合失調症の「私」がドーパミンの過剰分泌によってつくりだすには、あまりにもあり得ない人格の声であり、現象なのである。それは病気の「私」がつくりだしたのではなく、「私」の中にすでにいた者なのである。

 

それは心の一部であるから、「私」と同じように私の身体をコントロールできる。身体に痛みを感じさせることができるのである。人間として生まれることは、神々と同じくらいの高い徳がなければできないことだとテーラワーダでは言われる。だが、その徳の高い幸福な人間界に生まれたのは、私の心の中のどのキャラクターなのであろうか?

あなたの命を奪おうとする「私」の中の「私」。それも誉れ高い人間に生まれた徳の高い心(キャラクター)なのであろうか?時として悪魔(マーラ)に憑かれた方がよほどマシとも思われる、彼の人格もこの「人間界」に生まれ出たという不思議。統合失調症の患者にとって、自分の邪魔をするもう一つ、あるいはいくつかの他の人格は、時にその人を自殺に追い込むものである。悪魔(マーラ)よりよほど酷くて恐ろしい存在である。彼らは決して自分の意見を変えない。どんな高徳の僧侶がこの人格に語りかけても、彼らは考えを変えない。この「私」の中の別の「私」は、セイリエンスや「私」がつくりだしたモノにしては、あまりにもはっきりとした他の固有のできあがった人格である。

 

 

もはや人間に生まれて我々はよかったのかどうか、それすら不明である。すべての生き物・生命は同じ心の仕組みと問題を孕んでいる。何も知らない健常者が幸せであるのか、統合失調に罹患し、心がいくつもの人格の集合体であるという真実を知るほうが幸せなのかどうか、それは私にはわからないのというのが率直な感想である。

 

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私の心に神という別の人格を宿し苦しむ犯罪者の心に侵入する映画「ザ・セル

 

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自分と母親という2つの人格が交互にあらわれるヒッチコックの映画「サイコ」

法は悪い方の人格のみ裁くことはできるのか?

 

涅槃(ニルヴァーナ)の入り口

瞑想が進み、ついに意識の働かない段階にまでたどり着いた。物質(地・水・火・風)のない世界、こころ(1.受(ヴェーダナー)=感覚。2.想(サンニャー)=概念作用(経験を概念によって判断・区別する領域。これはこういうものであれとはここが違うと違いの分かる区別作用。想は妄想の想なんだよね。止められないでしょう、なかなか(苦笑)。3.行(サンカーラ)=意志(外へ出かけたら帰らなければいけないという気持ちが起こる.。何か起きると次々に連続して発生してしまう働き。現象が次々に起こるのもサンカーラ。何かすると次に別の何かをしなければいけないという働き、これが行・サンカーラ。そして4.識(ヴィンニャーナ)という識別作用の世界(こころの4つの蘊の中では働きがわかりづらい。こころとは結局知る作用であり認識そのものであるから、認識の識別作用である識(ヴィンニャーナ)とは結局こころそのもであるのだが、認識には受想行の3つが欠かせない。結局、受想行識の4つは一体となって働いている。どれか1つを止めると、残りも止まる。こころをこの4つの蘊であると見つけるのは釈尊という正等覚者にしかできない。我々は有難く、その益を享受するのみである)――――(物質とこころ)のない世界。

 

 

生滅のない世界(現象世界ではすべてが生じて滅している。すさまじい速さで。生滅智を得ていないと、これはまったくわからない)。時のない世界。火も水も風も土(地)もない世界(地水火風は物質の4大元素)。光と色(いろ=colour)のない世界(光がなければ当然色もないのだが)。およそすべての概念と識別作用の働かない世界。だから言葉では何も説明できない世界、それ(涅槃)は本当にある。

 

 

こころを止めるとこの世界(涅槃(ニルヴァーナ))の入り口から中を窺うことができる。微妙にこころが働いているうちもその世界の存在を感じとることはできるが、正確に意識が一切働かず、こころの働きをすべて止めると、入り口にたどり着く(というか、そこはもう涅槃)。

 

 

 

ここがすべての生きとし生けるものの目指すべき最終到着点であると分かると、どの修行者にも励みとなるであろう。涅槃を感じ取るのは瞑想(サマタ瞑想)であるが、ヴィパッサナー瞑想智慧(特に生滅智)が生じていないとサマタ単独では無理であろう)。涅槃を知ることができても、煩悩が消えていくのはじわじわという感じ(私の場合)。涅槃は最高の境地であるが、現象世界にも幾分の未練があるのも事実である。

 

 

自分の身体が感じられる段階はまだまだ駄目で、身体の感覚がなくなり(身体が消えて)心だけの存在(これはこれで非常に気持ちのいい禅定ではあるが)でもまだ駄目、心があることすらなくなり、どこにいるのか、今いつなのか、私は誰なのか(私という意識すら微塵もなくなり)、そして何をしているのかということに対する意識がすべてぶっ飛んでなくなったとき、涅槃(ニルヴァーナ)が顕れる。

 

心も身体も働かない世界。スーパージェッター(古る!)やジョジョの奇妙な冒険のディオあるいは承太郎のザ・ワールドが時の止まった世界を生きていると思っていたが、涅槃とは時のない世界。ブッダや他の阿羅漢たち、あるいは不還果に悟り浄居天での永い時を過ごした梵天たちが入る世界。世俗諦からすると「何もない・何もない」で「無い無い」尽くしという否定のオンパレードなのだが、すべての否定形という形での肯定によって支えられている別モノ(勝義諦の世界)が涅槃である。

 

参照:スマナサーラ長老のYOU TUBE動画 ブッダのことば涅槃という境地 ウダーナ第8 パータリ村民の章1~4「涅槃についての経」を読む より

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