馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

意識がぶっ飛んでいる――――その時心は消えて現れ、意識は不連続となっている(心の生滅)

ヴィパッサナー瞑想により、心を観察していると、「あれ?意識がここで飛んでしまっている。明らかにこの飛んでいる前と後で、心は連続していない(つまり不連続で、ここで(この瞬間)心は消えて、また現れている(生滅している)、こうやって消えてまた現れて、不連続ながらつながっている(連続している)ということがわかります。

 

ぶっ飛んで意識が切れるの嫌だからと、ずっと辛抱して意識が切れないように心を(あるいは呼吸を)観察してみてください。それは無理です。必ず意識が飛んでしまうのがわかります。「あれ?今切れたよ。わかんなくなっちゃったよ」とわかります。ここで切れている。また切れている。ぶつぶつと年がら年中途切れていることが、はっきり分かります。ものすごい速さで心も瞬間瞬間死んで生まれているのです。

 

以前私はヴィパッサナー瞑想で、自分の食道が点滅するように消えて現れているのを発見しました。心も同じなんです。

ここからは至極当然な類推になりますが(こうやって疑う余地のないところで智慧が生じます)、モノも心も、つまり世界は全部ぶちぶちと途切れて現れて、不連続なものが連続して、現象としてつながっています。私は観察対象を他者の心と食道(身体)にすれば、同じことが発見できるはずです。厳密にはここまでやらないといけないのでしょう。

 

我々は瞬間瞬間死んで生まれている。モノも瞬間瞬間消えて現れる。もう心もモノ(物質)も、有るわけでもないし(瞬間を取ると確かに消えている=無い)、無いわけでもない(瞬間を取ると確かに有る)。有るとも無いともつかぬものが、因果法則によってつながっているわけです。

 

とんでもない世界に我々はいます(いるのか、いないのかも断定できませんが)。このような存在、現象世界の真実を呪うべきです。

勝手に、いる(有る)と思い込んでいるのは我々の都合(感情)で、本当は世の中は全部消えて現れています。

 

ずっと存在する確かなものなどありはしないし、消えたのなら消えっぱなしでいてくれたら、それは「無い」と確定できるのに、またつながってしまう(生じてしまう)。これは恐ろしいことで由々しき事態で、安定できません。安定的に有るのでもなく、安定的に無いのでもないのです。

 

これこそ恐ろしいことで、安息できないことです。

 

我々は心(意識)が、消えて現れてと、不連続になっているのを認識するのが嫌なので、強引にずっと心(意識)は連続していると思いたいだけで、事実は消えて消えて消えて、現れて現れてまた現れてしまっている(生滅を繰り返している)のです。