馬越康彦の日記

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統合失調症・線維筋痛症・多重人格・・・心で解決しうる病

ノーベル賞受賞者でIPS細胞の生みの親の山中伸弥教授とタモリ氏の「人体」というNHKスペシャルで、脳による体内臓器への指令重視から、各臓器間のコミュニケーションの方が重要であるとか、AGCTという核酸塩基の組み合わせによってうまれるDNAの、何がその個体にっとてオープンで、何がクローズかという、それがどうやって決定されているのかを探ることが今後のカギとなっていくことが紹介された。

 

 

テーラワーダ仏教徒なら当然知っているが、カギは心である。現代医学が心に踏み込まない限り、どこまでも解明できない謎が人体には残され続ける。人体の物質的な仕組みが解明されていくにつれ、生命存在の不思議で巧妙なからくりに、造物主の偉大さを思い、感嘆する人がいるが、仏教(以下テーラワーダ仏教をさす)では釈尊が2500年前に心の仕組みを解明しているので、仏教徒は名色分離智(ナーマルーパパリチェッダニャーナ)を知識としては知っている。

 

 

私は自分が統合失調症を30年にわたり患い、断薬により心にはメインパーゾナリティと、複数のサブパーソナリティが瞬間瞬間生滅して、瞬間瞬間メインの人格(パーソナリティ)の座をめぐって相争っていることを知った。

 

 

人格はどんな人にも複数存在する。ただ一般的には心所が無数に瞬間瞬間、変化生滅し、瞬間瞬間、心所に基づく人格も複数、因果法則によって乱立・生滅するが、その争いを制して、皆さんのよく知られる「Aさんは怒りっぽい人で、Bさんは慈悲に富んだ人である」という場合の「怒りっぽい」とか「慈悲深い」という一語で尽くされる代表的人格の座を射止めるのは、けっこう同じメインパーソナリティである。

 

なぜ代表の座を射止めようとするかと言えば、心の栄養は実際の食物と、触(パッサ)、受(ヴェーダナー)、識(ヴインニャーナ)の4つで、これらから得られる快を求めて、戦うからである。人格のそれぞれが欲しい食べ物は、メインが焼肉なら、サブは魚、メインが松田聖子の歌が好きなのに、サブは中森明菜が聞きたいというように、好みが分かれるが、最終的には肉体を通して眼耳鼻舌身から得る(実現する)しかないので、身体を支配する心所=人格が、自分の得たい快を実現して栄養を得られるという理由で、代表の座を求めるのである。もっとも敗れたサブにも、望み通りではないものの、栄養は回ってくる。だからサブパーソナリティも生き続ける。宿主が栄養を摂ると寄生虫も肥え太るように。

 

 

正式な診断を得たわけではないが、5年前には繊維筋痛症に罹っていた。大学病院で検査を受けても、「異常なし」のオンパレード。順天堂などでは「もう来ないでください」と言われたほどである。それくらい現代医療では手を差し伸べられない領域が、心の領域なのである。それも心が「病んでいる」などとよく揶揄されるが、病んでいるのではない。誰にでもメインとサブの戦いは起きているが、普通はメインがサブを押さえつけて勝ち続け、争いの事実は認識されずにいるだけである。だがメインの何らかの失敗によって、力のバランスが失われると、隙を狙っていたサブがつけ込み、統合失調やら多重人格やら繊維筋痛やら、いろいろ問題が生じる。

 

 

心によって痛みは生じる。身体が痛いのではなく、心が「痛い」と感じる。私たちが普段「私」と言っているのは、メインのパーソナリティであるが、サブのパーソナリティも心であるので、心は物質を支配している以上、幻聴・幻視・幻覚などの精神科の分野の病となることもあれば、痛みという感覚の病(線維筋痛症など)になることもある。サブの人格も「痛み」を生じさせうる。線維筋痛症患者の解決しない痛みは、サブの人格(パーソナリティ)が起こしている。だから解決しうるとすれば、精神科・心療内科などの心の病の分野の仕事かもしれない。肉体にとっては「痛み」はない。刺激が伝達されるだけである。危険な刺激である場合に、脳(心)が刺激を「痛み」と捉える。それは相当心の中で、メインとサブが対立・葛藤していることを意味している。サブも心なので、その人から離れない(消えない)。説得して納得させるしかない。心が悲鳴を上げている状態なのだから。条件がそろって、サブという人格(パーソナリティ)も生じている。原因と条件が揃わなければ、滅する。そういう解決方法もある。

 

 

最終的には、メインもサブもないということ、すなわち無我をわからないと解決しないかもしれないが、仕組みは以上の通りなので、そこを理解するだけでも長足の進歩があるはずだ。

 

 

心所は心という水に溶け込んでいる成分なので、心所を基に形成されるメインやサブなどの人格は、お互いを知っているはずだが、メインはサブをあまり知らない。劣後的性格(劣後というのはその人にとってである、あくまでも)は、メインにはあまり重要とは捉えられないからではなかろうか?

だが同じ心なので、メインパーソナリティが考えていることはサブにも伝わってしまう。心という同じカップの水に溶け込んでいる成分同士であるからだ。同じ湯船につかっている者が、自分以外の者の身体を覗き知るように。

 

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私は線維筋痛症の謎を知っている