馬越康彦の日記

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生滅智 生じるのも滅するのもおそろしい

モノと心が瞬間瞬間生じては滅することがわかる(生滅智)と、せっかく生じたのに、すべてが消えていく(滅)ことに対する恐れ(怖畏智=ふいち)、もしくはその逆に、消えてなくなったものが、因果法則によって条件がそろえばいくらでも生じてしまう恐れ(これまた怖畏智=ふいち)、消えっぱなしで終わってほしいのに、条件がそろえばまた生じてしまう(つまり輪廻転生が終わらない、滅して(死んで)それで終わりにはならず、また生じてしまうという)恐怖につながる。

 

生滅智が生じれば、あとは仏道の一方通行で高速道路に入ったようなもの(スマナサーラ長老曰く)である。私はマハーシ・サヤドーの「ヴィパッサナー瞑想」を読んでいたので、モノが滅すること、せっかく生じたのに滅して滅していく怖さ、恐ろしさが書かれていたので、怖畏智へ進むためにそれ(滅する怖さ)を無理やり感じ取ろうと努めたが、失敗でした。

 

むしろせっかく消えた(滅した)のに、また生じてしまう、現れてしまう、そのことのほうが余程いやらしくて怖いと感じられた。滅したはずなのにまた現れるので、身体が死んで終わったのに、心が連続するからまた次の世界で身体をつくってしまい、それがずっと続く(輪廻転生してしまう)恐怖。これも怖畏智である。いつまでも続く輪廻。それに飽きて、それを嫌悪して、それ(輪廻)から逃れてください。

 

現象世界では生じて滅するということが、ノンストップで終わらない。現れるから滅する。そして滅するから現れる、これが現象であり、現象をつないでいるのが、因果法則なのである。現象は隙間(すきま)なく流れる。現れた現象は消える。消えるから次が続く(現れる)。現れるモノは消える。修行者はまず極度に集中して、観察する。観察対象は四念処にしたがって、身体、感覚、心、ダンマのいずれでもよい。とにかくものすごいスピードで生じて滅している、滅して生じている、これがわかればOKです。ほんの一瞬わかればOK。智慧が生じるというのは、ほんの少し真理を自分が直接観察すればOKです。それで本物の理解が得られます。マトリックスのネオのように、現象がいつでも暗合化された機械言語のように流れていくのを見ているのではありません。ネオも平時は違うのかもしれませんが。ほんの少し、現象が驚くほどの短い時間で生滅しているのを観察できれば終わりです。智慧が生じますから。一度生じた智慧は消えません。

 

現象は消えて現れる。消えたのに現れるのは因果法則があるからです。そしてまた消えます(滅する)。原因がなくなれば、現象も消えてしまいます(これも因果法則)。これは究極の智慧、すべてがわかる恐ろしい智慧です。因果法則がわかると、業(カルマ)がわかります。業は因果法則の「心」の領域での応用例・適用例(Application=アプリケーション)なのです。

 

なぜ自分の今感じている感覚が過去の行為の結果であるのかとか(もちろんそれは原因があるから結果が起きているのです)、善いことには善い結果、悪いことには悪い結果があるという、そのことがわかると、カルマの仕組みに対する理解が驚くほど進みます。他人の皮膚によい感覚を与えると、自分もよい感覚を得られたり、他の生命に満腹感をあげると、自分も満たされます。しかもカルマは1対1で原因と結果が照応しません。1あげると、100返ってきたりします。ここが不思議なところです。

 

ここまで来たら、スマナサーラ長老の「パワーアップユアライフ」とか「ブッダが教えた業(カルマ)の真実」とか「ブッダの実践心理学の第五巻 カルマ(豪)と輪廻の分析」とかを読み直してみるといいでしょう。