諸法は因により生ず。その因を如来は語った。その滅もまた(語った)。大沙門はこのように説いた。
雨だれが軒下を落ちています。見ている我々には一本の雨水が落下しているように見えますが、少し勢いの弱い雨だれをデジカメなどでぱちりと撮れば、
よく分かるのですが、その一本の雨だれは無数の雨滴(雨粒)の集合体なのです。
滅と生が気づかないうちに、絶え間なく起きて、現象世界は成り立っている。1番目の雨粒は重力によって落下して地面に落ちて消える(因により滅す)。
1001番目の雨粒も重力によって雨樋から1000の後につながって生じる(因により生ず)。
我々には滅と生がわかりませんから、そこをカットしちゃうんです。カットして、1~1000でできている雨だれと、1001~2000でできている雨だれの違いが判別できない。現象は変わらずに続いているものだと思われる。でも実はものすごいスピードで変化している。同じではない。だから執着成り立たない。でも我々には生滅がわからない。生滅を起こしている因果法則が分からない。
生命は因果法則が分からないから、無始なる過去から輪廻転生し苦を受け続けている。
因果法則が分からないから、現象世界から脱出するための因縁を手玉に取った脱出法も考えつかず、無限に苦しむ。これが正体です。
こうした因縁によって生滅している現象世界の中で、釈尊は生命が現れては滅す、滅しては現れる、その因縁法則を十二因縁という縁起でつかまえました。
ものごとは原因があって現れ、原因があって滅するのです。この因縁を分かったところで、釈尊は、二度と現象世界に生まれないように、再生の素因を断滅することで、涅槃へ入られました。
我々も同じ仕組みです。渇愛を断じることによって、執着を断じることによって、無明をなくすことによって、こころはもう次の身体を造り出せません。ローソクの炎が消えてなくなるように、再生の素因を断った阿羅漢もふっと消えてなくなります。
十二因縁
無明に縁って行が生じる。行に縁って識が生じる。
識に縁って名色が生じる。名色に縁って六処が生じる。
六処に縁って触が生じる。触に縁って受が生じる。
固執に縁って有が生じる。有に縁って生が生じる。
生に縁って老、死、憂愁、悲泣、苦しみ、悩み、落ち込みが現れる。
このようにして、このすべての苦蘊の生起がある。