馬越康彦の日記

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妄想を止める、サティをいれる、この2つで修行が完成する

 巷ではワンネスが流行っているようです。我々はもともとは一つの宇宙意識の参加構成員であるとか、まあ平たく言えば、昔の梵我一如(アートマンブラフマンが同一であること)に同じか、それに近い考えであるようです。

 

 それがどういう状態であるかと言えば、心の波が一時的に消えて、他の生命もしくは非生命と自己を区別する垣根が消え去り、「我々は生命も、非生命も、すべて同じもの、この宇宙世界に存在しているすべては同一であり、同じ意識の下にあって肉体あるいは形のみが個々においてばらばらに結果表出しているにすぎない」という一体性の喜悦感を味わうものと私は理解しています。

 

 Non duality(自己同一性とか不二一元と訳すといいのだろうか?)とよばれる境地です。

 


 梵我一如とかワンネスは心の波が一時的に消えることによって得られる境地で、それは確かに高度で、昔でいうところの仙人などの限られた修行者の到達する境地ではありますが、仏教的な見地からすると、残念ながらそれは悟り(心の波を一時的ではなく、完全に消すことによって現れる涅槃(ニルヴァーナ)を知り、現象世界(宇宙世界=仏教でいうところの名色(ナーマルーパ))を去って、完全に苦(dukka)を滅する状態)への長い道のりの一里塚であると、釈尊は説明されています。

 

 

 その一体感は、心の波が消えているときの一時的なもので、日常生活に戻ればまた心は波型の波形で活動を始め、味わった一体感も過去のものとなります。

 

 

 修行はそこから、無色界禅定4つを修習し、非想非非想処定というきわめて困難な、心(想)があるともないともつかぬ、もう心(想)がほとんど活動していない状態を経て先へ進むはずのものを(お釈迦様は2,3日でマスターしていますが)、それでも禅定(サマタ瞑想)では心を止めきれなかった(心の波を消せなかった)釈尊が、6年間の遊行で、ヴィパッサナー瞑想による智慧(名色分離智や縁摂受智や生滅智などの十六観智)を身体・感覚・心・ダンマの4つにサティ(念)を入れ続けることで得て、ようやく煩悩を消し去る(悟りをひらく)ことができた訳です。

 

 

 その時(悟った時)は、因果法則をはじめ、心の法則、カルマ(業)の法則、種子の法則、自然法則の5つをマスターし、智慧が完成した喜びのから、何日間も座る木を変えつつ、瞑想に浸り続けていらっしゃった訳です。

 


 ワンネスも優れた境地ではありますが、そこで足踏みしていてはいけません。そこはまだ出だし。はじめの一歩。その更に遥か先に苦の完全消滅、輪廻転生の終わりがあるのです。

 

 妄想を止める。サティを入れ続ける。たったそれだけのことがこの道のりの指針であり、キーワードなのです。