馬越康彦の日記

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容易くない解脱

解脱というのは、たとえば釈尊が第一禅定から第四禅定に次々と入っていき、サティが不動のものとなり、妄想のない、つまり失念(サティしないこと)することのない状態にまで心が清浄・専一・確固不動のものとなり、自分の過去生を次々と何十万劫でも遡って思い出し、次に生きとし生けるものが、それぞれの業にしたがって、どの世界からどの世界へ転生していったかをあからさまに観て、ようやく因果関係が十二分にわかったところで煩悩の漏れがなくなる(漏尽智=ろじんち)、つまり解脱する、そしてそれは釈尊やアーナンダ尊者のように一晩のうちに終わるものだと思っていたが、実際にはその前振りとして、煩悩が徐々に消えていくものの、愛欲(性欲)が残り、慢(他と比較して自分があるという微妙な気持ち)が消えてくれないといった苦しい日々がながくながく続く。

 

終わりのない旅をしているかのようで、どこが終点かよくわからない。とはいえ、スマナサーラ長老にしたがって、まったく妄想のない禅定に入ることはできて、そこでは心を止めてしまっているので、感受作用(ヴェーダナー)が消え(痛みとかがなくなり)、想起する(サンニャー)ことがなくなり(概念=表象作用がなくなり)、衝動(サンカーラ)作用が消えて、心が衝動にかられてあっちこっちへ行くことも戻ることもなくなり、住してとどまることもなく、何かをしなければという心の衝動作用が滅するので何も起きなくなり(活動が止まり)、識別作用(ヴィンニャーナ)が消えて、心はもう何も認識しないという究極の安楽というか何もない状態に入る。

 

よく言われているように、そこは現象世界の物質(地水火風)がなく、太陽も月も輝かず、虚空もない。形からも、形無きからも一切の苦しみからまったく解脱する。

ない、ない、ないと何もかも現象世界、有為の世界、俗世間=世俗諦、がない世界。「~がない」という表現でしか、この心の止滅したやすらぎの世界は表現できない。

 

この世界に片足を突っ込むことまではできるのに、いまだ欲が消えない。睡眠時間は減っていき、1時間~1時間半で目覚める。時には単に目をつむっていただけという感じで起きあがる。すこし身体を動かすと疲れてしまい、また寝るのだが眠らない。というか眠れなくなる。ものすごく苦しく疲れやすくなる。

 

自身を振り返っても、まず光に包まれるという禅定経験があって、次に梵我一如とかいわれる自他の区別がない境地に入る。「自動車の運転手が自分自身となる」とか「道路工夫が砕いている石そのものに自分がなる」とかは、このきわめて初期の段階で経験することで、どうということはない。

 

多くのスピリチャル好きの人はこうした経験とその解釈を好むが、意味はない。悟りは遥か先にある。ここで足止めを食らっていると、単なるスピリチャル好きのお嬢様芸で終わる。

 

心の波が一時的にとまって、自他の区別作用が止まっただけの事で、波はまた打ち始める。心の波が止まると、認識に上がってくる対象に対して、自分と他者という区別ができなくなるのだが、その状態が、梵我一如(ブラフマンアートマンの一体化)とか、スピリチャル好きの人の好む「運転手が私である」とか、「石が私である」とかの神秘体験(神秘でも何でもないんだけど)とよばれるものである。

 

 

心の波を完全に止(と)めるのは仏教、釈尊だけがはじめて成功したことである。波があるともないともつかぬ微妙な状態で、これ以上進めなかったのが、想があるともないともつかぬ状態、いわゆる非想非非想処定の状態で、これがわかるのは仙人の中でもありえない人。ここまで心を成長させてもまだ終わらずに苦しむのである。つまり禅定から出てしまうと、また心が動き始める。また憂い・悲しみ・悩みが尽きることのない輪廻に戻ってしまうからである。

 

 

これ(輪廻)を終わらすために釈尊の遊行(世間で苦行と言われる)があり、釈尊は科学的にいろいろ実験したのち、あの道(中道とよくよばれるが、中道というよりは超越道といったほうがふさわしい)を発見された。

 

 

これ(悟り=解脱)は難しい。特に因果法則はまずわからない。現象があらわれて消えてつながっているのだが、この連綿と続く現象の中に、なにが因であり、なにが果であるのかをはっきり見分けられず、ただ己の煩悩を喜ばせるために、現象世界に耽溺する。溺れてしまって、ここから抜け出せない。

 

因果法則や四聖諦、八正道をもって、阿羅漢を師匠として頼ってはじめて、何とか悟りが開けるかもしれないという条件が揃うのに、”門でおばあさんに箒でたたかれて恍惚となって大悟しました”なんてことは、100%、いや1000%起こりえない。

 

 

智慧をもって解脱するのに、智慧が生じずに、心がトラスファーしただけで、解脱したとは笑止千万なのだが、日本には釈尊の教えが今日のように正確に入ってこなかったのであるから、無理からぬ話である。そこは気の毒な話なのだ。逆に、これほど待望された釈尊の発見、ことに心の法則や業の法則などの教えが説かれているのだから、今の私たちには千載一隅のチャンスなのである。