馬越康彦の日記

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涅槃(ニルヴァーナ)の入り口

瞑想が進み、ついに意識の働かない段階にまでたどり着いた。物質(地・水・火・風)のない世界、こころ(1.受(ヴェーダナー)=感覚。2.想(サンニャー)=概念作用(経験を概念によって判断・区別する領域。これはこういうものであれとはここが違うと違いの分かる区別作用。想は妄想の想なんだよね。止められないでしょう、なかなか(苦笑)。3.行(サンカーラ)=意志(外へ出かけたら帰らなければいけないという気持ちが起こる.。何か起きると次々に連続して発生してしまう働き。現象が次々に起こるのもサンカーラ。何かすると次に別の何かをしなければいけないという働き、これが行・サンカーラ。そして4.識(ヴィンニャーナ)という識別作用の世界(こころの4つの蘊の中では働きがわかりづらい。こころとは結局知る作用であり認識そのものであるから、認識の識別作用である識(ヴィンニャーナ)とは結局こころそのもであるのだが、認識には受想行の3つが欠かせない。結局、受想行識の4つは一体となって働いている。どれか1つを止めると、残りも止まる。こころをこの4つの蘊であると見つけるのは釈尊という正等覚者にしかできない。我々は有難く、その益を享受するのみである)――――(物質とこころ)のない世界。

 

 

生滅のない世界(現象世界ではすべてが生じて滅している。すさまじい速さで。生滅智を得ていないと、これはまったくわからない)。時のない世界。火も水も風も土(地)もない世界(地水火風は物質の4大元素)。光と色(いろ=colour)のない世界(光がなければ当然色もないのだが)。およそすべての概念と識別作用の働かない世界。だから言葉では何も説明できない世界、それ(涅槃)は本当にある。

 

 

こころを止めるとこの世界(涅槃(ニルヴァーナ))の入り口から中を窺うことができる。微妙にこころが働いているうちもその世界の存在を感じとることはできるが、正確に意識が一切働かず、こころの働きをすべて止めると、入り口にたどり着く(というか、そこはもう涅槃)。

 

 

 

ここがすべての生きとし生けるものの目指すべき最終到着点であると分かると、どの修行者にも励みとなるであろう。涅槃を感じ取るのは瞑想(サマタ瞑想)であるが、ヴィパッサナー瞑想智慧(特に生滅智)が生じていないとサマタ単独では無理であろう)。涅槃を知ることができても、煩悩が消えていくのはじわじわという感じ(私の場合)。涅槃は最高の境地であるが、現象世界にも幾分の未練があるのも事実である。

 

 

自分の身体が感じられる段階はまだまだ駄目で、身体の感覚がなくなり(身体が消えて)心だけの存在(これはこれで非常に気持ちのいい禅定ではあるが)でもまだ駄目、心があることすらなくなり、どこにいるのか、今いつなのか、私は誰なのか(私という意識すら微塵もなくなり)、そして何をしているのかということに対する意識がすべてぶっ飛んでなくなったとき、涅槃(ニルヴァーナ)が顕れる。

 

心も身体も働かない世界。スーパージェッター(古る!)やジョジョの奇妙な冒険のディオあるいは承太郎のザ・ワールドが時の止まった世界を生きていると思っていたが、涅槃とは時のない世界。ブッダや他の阿羅漢たち、あるいは不還果に悟り浄居天での永い時を過ごした梵天たちが入る世界。世俗諦からすると「何もない・何もない」で「無い無い」尽くしという否定のオンパレードなのだが、すべての否定形という形での肯定によって支えられている別モノ(勝義諦の世界)が涅槃である。

 

参照:スマナサーラ長老のYOU TUBE動画 ブッダのことば涅槃という境地 ウダーナ第8 パータリ村民の章1~4「涅槃についての経」を読む より

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