馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

無我とはなにか?――― 統合失調者の観点から見た無数の私

私は統合失調症にかかって30年以上になるが、当初はいわゆる幻覚(幻視・幻聴)の原因は、実際に悪い人間が私をつけまわして、私の周囲で非難したり、音をたてたりしているものだと思い込んでいた。

 

統合失調症と判断されても、なお自分に危害を加える人間がリアルにいるのだという意識が変わることはなかった。このたび岩波新書の『統合失調症』という本を読み、患者の具体的な症状例を読んで、「あ、これは自分と同じである」とわかり、はじめて病識(自分が統合失調症であるという認識)が生じた。

 

思えばもっと早く、「こういう風に人の話し声や、うわさ話などが聞こえてくるのですよ」と分かっていれば、もっと早く病人であることを認識していたであろうに。実在する人間の攻撃にしてはあまりに不思議なことが多すぎるということで、私は人による攻撃の次に霊の存在(時には悟りの邪魔をする悪魔(マーラ)の存在)を疑い始めた。

 

そして、ソファに寝ている私をソファごと宙に浮かべて揺らしたり、グラスの中の氷を破砕(クラッシュ)させたり、私の見ている前で、便・尿・精液を床に垂らして見せたり、挙句は寝ている私の右の脛(すね)を切り刻んだりという不思議な現象の数々に、これは幻覚ではなく現実である、いったい何者の仕業なのか、悪霊であるなら除霊しなければと、各地で除霊していただいたが、なんら結果が出ず、「いいえあなたは統合失調症ですからそういう現象に遭うのです」という意見の下にリスパダールなどを飲んで一時的に症状が軽くなったり、それでも薬に慣れ始めると、再びどったんばったんと床を踏み鳴らす音が聞こえ、耳栓をして寝ると、耳栓を耳から強引に抜かれて、空いた鼓膜にどでかい音を叩き込まれるという目に遭わされ、――“「これは私という存在は無数の私が常に戦いを繰り広げ、私の身体の支配者になろうとしているのだ」”――というスマナサーラ長老のYOU TUBEの動画通り、

 

www.youtube.com

 

私という確固とした唯一の変わらないもの(性格・人格)が永遠にあるのではなく、私というのは無数の私という人格の集合体であり、この無数の人格は相性のよい他の人格と組んで、いろいろチームを作ってチーム戦で戦っているという結論に達した。言ってみれば、私に対する私の反乱なのである。

 

二重人格とか多重人格とか分裂病(今でいう統合失調症)とは、戦いに勝ってはいるものの、主たる人格のチームが従たる人格のチームを統御できず(抑えられず)、本来代表者は主たるチームだけであるはずなのに、二つになったり(二つが代表になる)、いくつものチームが群雄割拠したり(無数の人格が一つの身体に宿る)という、その様子を表現しているに過ぎないという結論に達した(まあそのつもりで命名されているのだろうけど)。

 

私の中にいる無数の私(性格・人格)には、男も女も混ざっている。肉体は男なのに心は女であるなどというのは普通に当たり前であり、誰の心にも、どの動物・虫・神々・霊(餓鬼)・地獄の存在者など、生きとし生けるすべての生命の心は、無数の男女から構成されていて、その無数の人格もまた無数の人格から成り立っており、その一つ一つの人格(心)というのも、心の中にいくつかの心所が溶けて出来上がっており、結局因果法則にしたがって原因と条件がそろえば、無数の心(人格)も顕われたり消えたりしているのだということ、つまり私などという唯一の変わらぬ永遠常住のモノは、はじめから存在していないのだという仏教の結論はその通りに正しいことがわかった。

 

私の中にも男が2体と女が1体は最低います(昔はさらに別に男が1体いました)。これは男・女という性器の差ではなく、男に近い考えや声を持つ人格や、女に近い考え方をして、女の声を持つ人格がるということで、肉体が男であるか女であるかはさしたる問題にはならない。LGBTQの問題は、十分に普通で当然の話である。「何かをしたい私としたくない私の2つが同時にあるんだよね」などという話も、「その通りだよ。どちらの人格もあなたの中にちゃんと存在していますから」と、当たり前に認められる。

 

すべての心を持つ生命にこれは当てはまる。無我であり、男女の差というものはないのである。

 

また私の経験からすると、人々が霊障であると思っているものは、その人の心の無数の人格の為せる業であること、一般に幽霊を見たという時の幽霊とは餓鬼であること(餓鬼は藤本晃先生の『餓鬼事経』などを読むと、その土地(場所)に縛り付けられている存在(いわゆる地縛霊)であることがわかる。また心は物質を作り出すことができること、すべて物に先立つのは常に心であることなどを私は経験した。

 

 

映画『エクソシスト』などは代表的な統合失調症霊障である。私の中に別の私が宿って私を困らせるというのは、このタイプである。私の心にいる別の私は、私の身体に痛みなどの感覚を与えることができる。線維筋痛症などはこのタイプであり、統合失調症の薬が線維筋痛症の患者に効くのもそのためである。そもそも餓鬼(幽霊)に人間を困らせる力はない。彼らは自分の悪業でものすごく苦しんでいて、それどころではない。

 

統合失調症の患者に聞こえる音・声などは、゛事物へセイリエンス(顕著性特徴)が付与される"という説明がなされ(解説は控えます)、これはドーパミン神経系の役割であるということで、薬を飲んで過剰に働いているドーパミンをコントロールするわけだが、私の経験では、この薬の作用で、無数の人格の働きが弱められ、彼らが悪事を働けなくしていることであるという理解に立っています。

 

 

統合失調症の「私」がドーパミンの過剰分泌によってつくりだすには、あまりにもあり得ない人格の声であり、現象なのである。それは病気の「私」がつくりだしたのではなく、「私」の中にすでにいた者なのである。

 

それは心の一部であるから、「私」と同じように私の身体をコントロールできる。身体に痛みを感じさせることができるのである。人間として生まれることは、神々と同じくらいの高い徳がなければできないことだとテーラワーダでは言われる。だが、その徳の高い幸福な人間界に生まれたのは、私の心の中のどのキャラクターなのであろうか?

あなたの命を奪おうとする「私」の中の「私」。それも誉れ高い人間に生まれた徳の高い心(キャラクター)なのであろうか?時として悪魔(マーラ)に憑かれた方がよほどマシとも思われる、彼の人格もこの「人間界」に生まれ出たという不思議。統合失調症の患者にとって、自分の邪魔をするもう一つ、あるいはいくつかの他の人格は、時にその人を自殺に追い込むものである。悪魔(マーラ)よりよほど酷くて恐ろしい存在である。彼らは決して自分の意見を変えない。どんな高徳の僧侶がこの人格に語りかけても、彼らは考えを変えない。この「私」の中の別の「私」は、セイリエンスや「私」がつくりだしたモノにしては、あまりにもはっきりとした他の固有のできあがった人格である。

 

 

もはや人間に生まれて我々はよかったのかどうか、それすら不明である。すべての生き物・生命は同じ心の仕組みと問題を孕んでいる。何も知らない健常者が幸せであるのか、統合失調に罹患し、心がいくつもの人格の集合体であるという真実を知るほうが幸せなのかどうか、それは私にはわからないのというのが率直な感想である。

 

f:id:umakoshi:20210823114705j:plain

私の心に神という別の人格を宿し苦しむ犯罪者の心に侵入する映画「ザ・セル

 

f:id:umakoshi:20210823234432j:plain

自分と母親という2つの人格が交互にあらわれるヒッチコックの映画「サイコ」

法は悪い方の人格のみ裁くことはできるのか?