馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

心を鍛える

ここ一ヶ月は、半跏趺坐での座る瞑想も行わず、ひたすら社会生活の中での実践が続いている。

私はバブル景気の初めに銀行員として就職したのだが、3年ほどで中途退社し、その後はどの企業も2~3年ほど勤めては転職してを繰り返してきたが、心の成長はまったくと言っていいほどないままであった。

 

精神に錯乱をきたし、20代の終わりからは睡眠薬精神安定剤とをずっと服用してきた。人が自分の悪口を言っているようで、耳栓をして通勤するようなこともあった。この当時はまだ若くて、しかもまるっきり仏教に出会えるような環境になかった。

 

今にして思えば、テーラワーダ仏教に出会う前は、こころを成長させるような「何か」に出会わなかったのである。雁屋哲氏の「男組」に出てくる流全次郎とか、宮城谷昌光氏の「太公望」に出てくる呂尚中島敦の「名人」に出てくる弓の名人・紀昌、「三国志」の諸葛亮孔明などを参考にするものの、まったく人格改良・人格向上できずに苦しんできた。さながら、スターウォーズを観て、フォースがあるなどと信じ込み、目隠しをして自分を襲う光線(ビーム)を感じとる訓練を何十年続けても無駄なことが分からぬ愚か者のように。

 

*「HUNTER X HUNTER」や「北斗の拳」を読んでいた頃と同じ程度だったのである。もっとも漫画も歴史文学も同程度の意味しか持たなかったが。たとえば、「太公望」の中で「望」(若き日の呂尚)が深山で剣の修行をする場面がある。自分もあれをやろうと思った。若い頃「六三四の剣」を読んで、自宅の前の公園で竹刀の素振りを何千回もしたように。心が全く成長する術を知らないと、こういう方向違いなことをして一生を終えてしまうのかもしれない。

 

今は亡き父は何とかして私を社会に復帰させようとしていたのだが、私は真剣に山籠もりして太公望のようになれるなら、それに5~10年かけてしまおうとしていたのだから、空恐ろしい(父を心配させないために、山籠もりなどせずに、結局真面目に働いてきたのだが)。あるいは勤めては辞めてしまう自分の脆弱な心は、男組に出てくる神竜剛次の言うように「非情の精神」が欠けているからだと思って、一日中炭をすっては、半紙に「非情の精神」と清書して、それをスーツの懐に忍ばせて勤務していたこともある。あたかも過酷な合宿に心を落ち着かせようと、GTO(当時週刊少年マガジンではやっていたグレート ティーチャー オニヅカ)のバッグに救いを求めていた人のように。

   

思えば、具体的な道、手段を知らなかったのだから、自分の弱いところはそのままで時間が何十年もいたずらに過ぎ去ってしまっていた。車を運転することすらままならなかったので、6年前に両親が同時に入院してしまったときなどは、慌てふためき、生きた心地がしなかったものだ。頭にカーっと血が上って、血圧「190/140」なんていう時もあった。病院から深夜自宅まで運転して、無事車庫入れまで終わったときは、観自在菩薩に感謝していた(当時は観音信仰をしていたので)。

 

その後奇跡的に禅定に入って、ネットでスマナサーラ長老の法話を読み、ヴィパッサナーや慈悲の瞑想をして今日に至るのだが、ようやく終わりの見えてきた最近は、座る瞑想もせずにずっと心を観察している。

欲はないだろうか?怒りはないだろうか?怖れは?悩み苦しみ、憂いはないかと。

 

 

テーラワーダ仏教で心を調御した人間にとって怒り・憎しみ・欲・悩み・憂いetcにとらわらている心のズブの素人たる「世間一般の人」は、あまり問題にならない。

釈尊の言われるように、彼らのほとんどは、やりたい放題悪事をなして、体を失った後、長いこと地獄に落ちるようだ。地獄は想像を絶するほど、不可知な苦の世界である。「極端に不幸な、極端に不快な、極端に不可意なところだと、まさしく言えるのは地獄なのです。喩えで説明することもむずかしいのです」(中部129賢愚経)

 

心を修養した者にとって、世間との摩擦で敗れることはない。百戦して百勝である。宮本武蔵が生涯一度として負けることがなかったように。変えるのは世間ではなく、あなたの心なのです。心を変えれば空気のように他を損なうことなく負けることはありません。仏教(テーラワーダ仏教)だけなのです。修行方法を教えているのは(私は五輪書兵法書などもかじりましたが、あれらでは個人的には悟りへと向かわなかったようです)。

 

父を3年前に亡くし、今また母をこの先失い、一人で生きていくであろう儚き身にとり、現実の生活の場で出てくる怒りやら怖れなどが、修行の実践そのものなのである。

まさにこの意味において、仏教は実践的であり、完成者の心はもう何ものにも揺らがず、ずっと安寧な状態が続く。

これがテーラワーダ仏教である。これがブッダの教えである。これが生命の最終到達点なのである。

 

どの本を読んでも、どの人の生き方を参考にしても、果ては精神科医ベンゾジアゼピン系の薬に頼っても解決しなかった問題が、今ブッダの教えによって解決しようとしている。なぜ初めからこの道に入らなかったのであろうか?まあ、見つけたのだからそれで良いのだが(注:実践あっての仏教ですよ)。今では睡眠薬精神安定剤などは完全に断薬して暮らしていけるほどに回復した。もちろん、酒もタバコも女も一切なしである。すべてにおいて依存することがない。究極の安楽である。親にも依存せず、妻にも依存せず、子供に依存せず、友達にも依存しない。依存しないというのは楽なのです(妻子は元からいないのですが)。

 

独り静かに空き家のような我が家を道場として、怠らずに瞑想をすること、これが今の私の楽しみです。

 

参考までにブッダラボよりリンクを貼ります。

thierrybuddhist.hatenablog.com