馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

縁摂受智のあらわれ

ナーマ(こころ=名)とルーパ(物質=色)の因果関係。
「膨らみ・縮み」を観察し続けると分かります。
「膨らみ・縮み」という色があって、それを念じるこころ(ナーマ)が起きるということ。
「膨らみ・縮み」という色がないと、それを念じるこころ(ナーマ)も起きないこと。


唾を飲みたい(ナーマ)があって、唾を飲む(ルーパ)が起きるということ。


「膨らみ・膨らみ」と念じるこころ(ナーマ)にあわせて、お腹(ルーパ)が膨らんで、戻って、また膨らむこと。膨らみは無数の膨らみからなっているので、ラベリングさえ間に合えば、無数の膨らみを数えられること。

「縮み・縮み」と念じるこころ(ナーマ)にあわせて、お腹(ルーパ)が縮んで戻って、また縮むこと。「ナーマ」にあわせて「ルーパ」が生じている(ナーマが原因となってルーパが結果となる)。

瞑想中、物音に驚くということひとつにも、ナーマ(名)、ルーパ(色)の関係(因縁)が見て取れる。耳というものがあって、耳が音を拾うのをもし心(ナーマ)が事前に待ち構えているのなら、突然音を聞いて、びっくりするということは起こりえない。音が生じて耳に触れる前にこころ(ナーマ)が待ち構えていたのなら、驚くはずがないからである。そうではなくて、音が生じて、耳が生じているときに、音が生じたことによってそれを聞こうとするこころ(ナーマ)がはじめて生じるから(ルーパとナーマは常にこのような因果関係をもって生じているのだが)、驚くということが起こるのである。
眼耳鼻舌身意すべてにこれは見られる。六境(色声香味触法)が起きるとき、六処が生じているときに限って、はじめてナーマ(こころ)が生じる。六境が六処に触れると識が生じる。これが、ナーマ・ルーパの関係の一部である。五門引転心とはこういうものである。


縁摂受智とは、このようにナーマ(名)とルーパ(色)の因縁関係を観察することである。


*名色(ナーマ・ルーパ)の因縁関係を知りたければ、コントロールできる意志(体を動かす、勉強する・働く・唾を飲む・背中をまっすぐにする)による行動をするときは、行動する前にすべて〇〇したい、と「たい」を念じてから、その次に身体(ルーパ)を動かすことを徹底する(これはナーマ(こころ)がルーパ(身体)の原因となっていることの理解に役立つから)。

例: 唾を飲みたい→唾を飲んでいる、飲んでいる。背筋を正したい→背中をまっすぐにしている、している

コントロールできない意志(呼吸・心臓の動き・消化活動など)による行動は、「ふくらみ・ちぢみ」などのように、ありのままに実況中継する。〇〇したいは成立しないからである。脈拍や消化活動を実況中継することはあまりないだろうが…。心臓の動きもふくらみ・ちぢみでよかろう。

コントロールできない意志についても、結局は意識でコントロールしているとスマナサーラ長老は言っています。

参考までに引用しておきます。
”冥想が上達すると、心が統一されてきて、今度は意識で心を動かしていることが見えてきます。
普通は、心もからだも自分のコントロールと関係なく動いているものと思っていますが、仏教で言うのは自分の意識で動かしているということなのです。心が統一してくるとその状態が見えてきます。膨らみ、縮みであろうと、瞼を閉じることであろうと、膨らませたい、閉じたいという意識があってその行動を起こすということに気づきます。実践者が落ち着いていないときは、言葉に従って呼吸もしているように感じますが、心が落ち着いてくると、呼吸やからだの動きに言葉を合わせることができるようになります。そしてもっと落ち着いて集中力がついてくると、最初のときと似たように、意識でコントロールして呼吸も行っているということが見えてきます。膨らむという意識があって、膨らむ行為が始まる。縮むという意識があって縮む行為が始まる、ということがわかります。それは集中力の結果です。
意識ですべて動かしていることを知るのは、ヴイパッサナー冥想から体験するべきひとつの智慧なのです。
 これらをふまえ、質問にもう一度お答えすると、冥想を進めるためには、意識が別にあるということをきちんと確認してみてください。
ブッダ智慧で答えます 7瞑想中のトラブル より)”



*座る瞑想に入るときは、(目を)閉じます、閉じます。(息を)吸います、吐きます。といったように、念じる。その後は「待ちます、待ちます」のあと、「ふくらみ・ちぢみ」である。



以下ウ・ジョーティカ・サヤドーの「自由への旅」より抜粋

kaGkhaM vitaritvA:ナーマ・ルーパが条件のゆえに生じること、生じるべき原因が存在
するから生じることを私たちが知った時、このことをたいへん明らかに知ることに
よって、全ての疑いが根絶されます。kaGkhaM は「疑い」を意味します。vitaritvA は
「克服して」。私たちは疑いを克服するのです。
私たちがもっている疑いとは何でしょう? 私たちは、この「私」について考える。
「私は以前に生まれていたのだろうか? 未来に生まれることになるのだろう
か?」。しかし、このナーマ・ルーパ、つまりこのプロセスと、そのナーマ・ルー
パが生じる原因を知った時、いまそれが起こっているように、以前にもそれは起こ
ってきており、また起こるだけの十分な原因があれば、未来にもそれは起こるであ
ろうと理解するのです。条件があれば、それは起こるでしょうし、条件が存在しな
ければ、それは起こらないでしょう。


これら二つの洞察智(名色分離智と縁摂受智)を理解した人は、「小さな預流(ソータパンナ)」と呼ばれます。
預流とは、「流れに入った人」の意味。本当の預流は、最初の道果(magga-phala、道と
果という流れに入る智)を既に得た人です。この段階は、本当の道果ではありませんが、
ナーマ・ルーパとナーマ・ルーパの原因を理解した人は、恒常的な実体、「私」、自己に
関する誤った見解のうち粗いものを、多く根絶します。この見解の清浄さゆえに、その
人は本物の預流に非常に似ている。だから彼は、小さな預流と呼ばれるのです。

彼は立脚地、依るべきある深い洞察智をもっているのです。この洞察智を得てそれを維持している人が niyatagatiko で、これは彼が低次の存在領域(悪趣)に再生しないことを意味します。彼は確実に善趣(sugati)、よい生に生まれるのです。
あなたの再生は、あなたの心の質、あなたの意識の質に依存しています。この深い洞
察智は圧倒的な力をもっており、あなたにある種の見解の清浄をもたらします。そして、
この見解の清浄ゆえに、心の質はたいへん高くなりますから、それは低次の領域に再生
することができないのです。あなたの人生は、あなたの心の質に依存している。両者は
釣り合わなければならないのです。低次の質の意識は、低次の領域、低次の質の人生に、
いわば再生を得る。あなたがひとたび、より深い洞察智と清らかな理解を得て、そして
また戒の清浄、明晰な心の清浄、この洞察智の清浄を有していれば、意識の質は非常に
高くなりますから、低次の領域に生まれることはあり得ないのです。


仏教では知識だけでは役に立ちません。巷では仏教学者の先生方の本が読まれているようですが…。
そういう本を読んで延々と思考にふけり、議論にふける人は解脱できません。
何の価値もないのです。「空っぽのポーティラ」になってはいけません。下のリンク参照。
空虚な知識人 | 日本テーラワーダ仏教協会