馬越康彦の日記

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テーラワーダ仏教に出会って

お釈迦様の教えが上座部仏教としてしっかりと伝えられてきたのにもかかわらず、日本では大乗仏教の教えしかなかったから、生まれてから半世紀も真理の教えに接することなく、私の人生は何の収穫もないまま終わるところだった。取締役にしてやるからと騙されて、無給で一年間働き、そこを辞めたのが7年前。そこからこれ以上社会で働いても騙されるだけだと社会との関わりを断ち、禅定に入って、「これが悟りだ」と勘違いしてはいたものの、ようやくまともな道を歩み始めたのが4年前の2月。
ヴィパッサナー瞑想を始めたのが、2年前。慈悲の瞑想を始めたのが1年前。スマナサーラ長老の根本仏教講義にネットで初めて触れたのも4年前くらいのことだから、いくらスマナサーラ長老が日本中を駆けずり回って真理を伝えても、「これ(釈尊の教え)が間違いなく真理だ」という信(サッダー)が起きる人なんて日本中探しても、ほんの一握りの人だけだと思われる。
人として生を受けるのは、ロト6やロト7に100回連続して当選するより難しく、かろうじて人間に生まれても、お釈迦様の教えに触れられるのは本当にありえない確率なんだと思うと、(お釈迦様の教えに預かれて)心の底からホッとする。もう間違えない。いろいろな哲学や宗教に接してきたが、もうお釈迦様から離れることはない。
これで最悪でも7回生まれ変わるうちに解脱に達する。これ以上の安堵感はない。もしできうるならば、この信(サッダー)を母親にも惹起して、ここまで育ててくれた親の恩に報いたいが、テーラワーダを伝えれば伝えるほど、母はこれを毛嫌いしてしまうので、親を真理に目覚めさせることは想像以上に難しい。
戒律(道徳)だけでも伝えられればと思うが、母の飲酒を止めさせる手立てはない。子共がこんなにも幸せになっているのに、母親に「これを信じなさい」とは言えない(サッダーは信じる信じないの信ではなくて、確信の信だからである)。
なるほど、仏教に来るのはインテリだけだ。この間まで神の愛だなんだと言って、アメージンググレースなどを口ずさんでいた自分が信じられない。自分はもうこの確信から離れない。離れられない。割れた石が元に戻らないように。釈尊の教えだけが本物であった。仏教だなどと言って大乗仏教チベット仏教新興宗教に染まっている人たちを見ると気の毒に思う。気の毒には思うが、これが真理ですよ、いい加減気づいたらどうですか!とテーラワーダの方に導くのは至難の業。清まるのも清まらぬのもその人次第。真理に出会うか出会わないかもその人次第らしい。あのサーリプッタ尊者がアッサジ尊者の威儀を見て、「この人は真理を知っている」と瞬時に分かって因縁の教えを聞いて預流果に悟ったのは有名な話である。
私もスマナサーラ長老の話を聞かなければ、真理が何かとわからないまま、いまだにニーチェなどを読み直して(一般大衆と自分の魂の清らかさのあまりの隔たりを「高貴さ」「貴族」などという言葉に解釈をゆだねて)溜飲を下げていたに違いない。それで溜飲を下げることはあっても真理を知って自分を進化させることはできなかったのだ。サーリプッタ尊者が因果法則という真理を教えてくれたアッサジ尊者に感謝し足を向けて寝られなかったように、私はスマナサーラ長老に向かって足を伸ばして寝ることは絶対にできないのだ。
それにしても大乗仏教は罪作りだ。仏教などと名乗らなければ仏教に期待する大勢の人の邪魔にはならなかったろうに。
哲学する習慣が自分にはあったとはいえ、「ゲルマニウムの夜」などを読んで(文学で哲学するのかと)「へー」と感心していたのだから、その当時の自分のレベルを思うと、やはりテーラワーダに触れられるのは一部の人で、確信するのはそのまた一部なのだと思う(我々一般人が芥川賞作家の作品に触れるよりテーラワーダ仏教に出会うのは遥かに稀な出来事だということ)。
余談であるが、一来果までくれば、理屈の上では人間界に生まれたとしても一回限りのことなのだが、現実には人間界のような低い世界にはもう生まれ変わらないらしい(スマナサーラ長老のアビダルマの解説に書かれていた)。自分は人として生まれて本当に困ったので、人間界はもうこりごりである。実のところ、天界もまた仏教徒以外でも善行を積んだ人は入ってしまうので、仏教徒にとっては迷惑な話らしいから、天界もまた転生先としてはいかがなものかと考えていた(兜率天ならいいのだが)。できれば浄居天に行って、その先は涅槃というのが個人的には理想の展開である。もう一・二段悟りの階梯をすすんで不還果へ至らなくてはいけない。

それにしても、我々は悟らない限り眠っている人生を送っているのだから、このままでは無駄死にである。

“ありのままに観るとどーなるの?

現在の瞬間で物事を観察すると、ホントにこの世は何者かと、価値判断入れないで観ると……
ありのままに観て、「捏造」することをやめて、世の中って何? 自分って何? と分かった。麻薬中毒で過去・未来に跳んでいくのはやめた。事実を知った。これまで見ていた世界は夢なんだぞ、と。そうやって、ブッダは堂々と四つの真理、四聖諦(苦・集・滅・道)を語るのです。”
スマナサーラ長老の仏教法話 2018年2月17日(土)より)

私も皆さんも寝ている。夢を見ている。このまま悟りを得られずに生涯を終えるのはむなしい。

2018.6.9 それにしてもつくづく思うが、テーラワーダに出会ってよかった。自分という存在の秘密も、なぜもろもろの現象が現れては消えていくのかも、自分が何をすればこの先どう自分に返ってくるのかも、疑問一切に対する答えがテーラワーダ仏教と瞑想(ヴィパッサナー)の中にはある。頭の中で考えるだけではなくて、禅定とか預流果など、実際に自分で体験できるのだから、本当にすべての疑いがなくなる。テーラワーダ仏教に答えがすべてあった。自分は生まれてから50年もテーラワーダに出会わなかった。西洋哲学やキリスト教などに翻弄されながら、何も進歩することがなかったのだが、テーラワーダに出会ってすべての疑いが晴れた。