馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

存在欲を断ちたい お金から離れたい 怯えをなくしたい

ミャンマーに行こうと思い、いろいろな道場の情報をネットで拝見しているのだが、自分の場合はサヤドーのインタビューとか瞑想指導は要らないことを思い知った。

生滅智が生じたので、放っておけば怖畏智から各過程を通って行捨智へ、そして道果が得られるのは、一度はやったことがある手順なのでよく知っている。

問題は金に囲まれた在家生活をこのまま続け不還果となっても、おそらく生きていることから生じる恐れ、肉体に対する執着、お金に対する執着、住居に対する執着からは解放されないことにある。そのことが怖い。

私はこうした存在欲に根差した怖れから逃れたい。貨幣から逃れたい。それには出家修行者にならなければ、根本的な怖れから逃れられないだろう。

瞑想の指導は要らないから(受けても構わないのだけど)、戒・定・慧の三拍子の揃った生活を送りたいだけなのである。

とにかく肉体にこだわる恐怖をなくしたい。肉体を維持するためのもろもろの手段、すなわち金、妻・子供などの家族、住居、財産、地位、名誉etcから一切手を切って離れてしまいたい。

何のためにタイやミャンマーへ行くかと言えば、「存在欲をなくすため」、ただこの一点に尽きる。

では日本に居ては存在欲にまとわりつかれるのかと言えば、たとえばスマナサーラ長老はお金を使いながら存在欲のない、阿羅漢としての暮らしを送っているし、ウィセッタ長老なども同じであろう。

どうやら、どこの国で暮らすかで、存在欲の有る無しは決まるものではなさそうなのだ。これ以上は解決手段がよく分からないので、とりあえず粛々と引っ越しと遺産相続の手続きを進めて、それから(落ち着いてから)スマナサーラ長老に確かめてみるしかなさそうである。

と言っても、私などは長老には相手にされないだろうから、日本テーラワーダ仏教協会の手を借りてこの問題に終止符を打つしかないと考えている。

 

もうこの目には物質(もの)は見えない。ただ地・水・火・風というエネルギーのファンクション(機能)しか映らない。ものはない。性質・機能があるだけなのだ。