馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

存在欲を滅尽する

母の葬儀から幾日も経っていないのだが、私は今某所で、ホテル暮らしを送っている。母の存命中からあった家の隣近所の嫌がらせがエスカレートして、とても暮らせる状態でなくなったからである。

それにしても存在欲は恐ろしい。私は最初ホテル暮らしというアイディアが思い浮かばず、親類縁者の家をしばらく転々としようと思い、それでは弟の家にも3,4日泊めてもらえないだろうかと頼んだところ、まったくの拒絶に遭った。

これから私は賃貸の生活になるから仏壇をお宅においてくれと言ったらそれも見事に断られた(そんなものかな)。

それどころか弟は私のところに車をとばしてきて、私がすでに相続した実家(不動産)とこれから相続する母の預貯金のすべての半分をよこせとすごい剣幕で殴り掛からんとするのだ。最悪である。今にして思えば、弟も存在欲(生きていかなければ)の恐怖心から私に向かってきたのだ。それがよく分かるだけに・・・。

その時は、「金の話はよしてくれ」と弟を追い返したのだが、まったくの凡夫で遅い子持ち(3人)の弟は、何千万も持って生活する私の窮状に目が向くことはない(弟はまったく私や母や父のことには無関心で、父が亡くなったときも母が亡くなったときも彼にも彼の家族にも連絡すら取れない状態で、もちろん介護の「か」の字も手伝っていない。ただ時折様子を見に酒を買って家に立ち寄って飲んで、帰りは私が府中駅まで車で送っていくだけの何の貢献もしていない、子供と嫁だけがひたすら可愛いという単なるDNAを残すことだけに明け暮れている郵政の凡夫である。だから父と母は私が看取り、これから自分一人で生活していくのにも弟も弟の嫁も何の手助けもしてくれないことが見え見えなので、私は老後病気になったときのことを考えて、自分の相続財産にこだわった)。

しかし先ほどブッダラボで、マハーカッサパ尊者が治癒した理由(新年法要2016年)を読んで、病気を恐れて財産にこだわる自分の存在欲の恐ろしさを思い知った。

生滅智まで来ている自分にはもう解脱しかない。それ以上に意味のあることは何もない。在家でこのまま生活していくのはどうなのだろうか?と疑問に思った。

普通の人には無常が分からない。瞬間瞬間、生滅するナーマルーパがみられない。自分は呼吸法(ヴィッパサナー瞑想)によって生じて滅する自分のナーマルーパやら、音がもう連続して意味を持って聞こえず、単なる生・滅の波にしか感じられなくなった今、洞窟で独りで病気を耐え忍んだマハーカッサパ尊者に釈尊が七覚志の経典を祝福した意味がよく分かる。どうしても存在欲を消さないといけない。金でやりとりする在家生活は金にこだわる。何とかして金から生活を切り離さないと・・・。

 

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

家の売却が済んだら、財産の半分を弟に振り込んで、残りはすべて慈善活動に使ってしまおうか考えている(効果的な使い道を考えねば)。

とにかく存在欲は恐ろしい。金がなければ怖いというのも存在欲があるからである。家が、妻が、子供が…と存在欲はずっと付きまとってくる。これを消さない限り私には修行完成はあり得ないのである。最も恐ろしいのは身体に対する執着である。これがすべての元凶である。しかも、もっとも断ちがたい執着(存在欲)。

ミャンマーかタイで出家すべきか、しばらくホテル暮らしをしながら結論を出さなければならないだろう。車は売却した。母の遺言書の検認も家裁で受け付けてもらった。

ホテルは生活しやすいのだが、ベッドでは座る瞑想ができず(ベッドが柔らかすぎて)、シングルの部屋では狭すぎて歩く瞑想ができない。

しばらく瞑想は自己観察を24時間続けることを徹底しよう。

そうそう、以前「タイにもミャンマーにも行く必要なし」なんて偉そうな記事を上げてたのは私でした。日本でも悟りを開くことはできますよという意味で上げたのだが、出家があるのはこれらの国々なのね。出家して暮らすにはこうした国々で暮らさなきゃいけないわけだったのね。皮肉な話だ。

 

幸い高血圧でアムロジビン2.5mgを朝夕と飲む以外は薬の必要がない。あとは鈴木一生さんの紹介を参考にミャンマーへ渡ろうかと。

必要なものだけ持っていき、あとはすべて置いていこう。仏壇は弟以外の親戚に頼ろう。仏壇がなくても功徳廻向はできるし。日本にも賃貸マンションを控えとして持てるほどの資産家ではないから。