馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

母すい臓がんステージ4宣告より7か月目に入る

去る11月22日で母は83歳の誕生日を迎え、今月ですい臓がんのステージ4の宣告から、7か月目に入った。2階の自室から下へ降りられなくなり、訪問看護の看護師さんや、在宅医療の先生方には申し訳ないが、2階まで階段を上ってもらっている。

痛みが今よりひどくなると薬も強くなり、薬が強くなると意識レベルが低下し、思うように話せなくなるので、今のうちに会いたい人、会わせたい人に会わせたほうがいいということで、母の妹夫婦と母の子供(私の弟)に先週末より家に来ていただいている。

先々月25日の2回目のゲムシュタビン点滴で、帰宅後4日間ほど寝込んでしまい、体力的にもきついとの本人からの申し出により、抗がん剤治療はやめてしまい自宅での緩和ケア医療サービスに専念している。

 

 

このまま年明けまで頑張ってくれればいいのだが、こればかりは私にはわからない。まだ食事がとれて、トイレに自力で行けるうちは大丈夫ですとのことだが、今日は妹と話し疲れたせいか、口があかなくなっている。3週間前には顔面神経麻痺になってしまい、顔の左半分が、全体的に下へと筋弛緩しているような状況である。母も大変だなととても心配になるが、ケアタウン小平の山崎先生が紹介状を書いて下さったので、近くの耳鼻咽喉科で薬をいただいている。

 

 

私は10月末の市の健康診断とオプションで選んだ肺のレントゲン、腹部エコー検査、胃カメラ検査の結果が2週間くらい前には出て、ALT、AST(いずれも肝機能)の数値が基準値を1だけ超えているのと、尿酸値の値がいくらか高いのを除いて、つまり肝臓に脂肪がつき始めているのを除いて、前立腺、胃、肺、すい臓、大腸などの主要な臓器では癌になっていないことを確認した。

 

また26年前から飲み続けていたベンゾジアゼピン系の睡眠薬によって、3年前から眼瞼痙攣(がんけんけいれん)を患っていたのだが、ボツリヌス菌を両目の周囲にボトックス注射してもらい、同時に睡眠薬をやめたので、ずいぶん症状が緩和した。

 

マーラ(悪魔)との戦いはもう三か月越しで続いている。マーラの力の凄さというのも十分思い知らされた。マーラなんて初めは信じていなかったのに、悟りの完成が近づくにつれ妨害がひどくなる一方だ。そういうわけで、先日初めてゴータミー精舎へ行き、ヤサ長老とマーラについて少し話した。ヤサ長老はお守りを持ちなさいという。何のことかと思っていたら、慈悲喜捨をお守りとして慈悲の瞑想を欠かさずしなさい、慈しみの念で周囲の人を観なさいというものであった。慈悲喜捨の念で体を満たしていることが、マーラからの最大のお守りになるという。また私が、スマナサーラ長老の瞑想指導を直接受けていないことを申し上げると、早いうちに受けるようにと促された。

 

膨らみ・縮みが無数の膨らみの生滅と無数の縮みの生滅で成り立っていることが分かった。身体もこころも瞬間瞬間消えている。ローソクの炎が瞬間瞬間消えて点いてを繰り返しているように(我々にはローソクの火がずーっと点いているようにしか見えないのだが)、この身体も心も一瞬にして滅してなくなっている。普通の(世間の)人にはそれがわからない。だからずっと身体も心もあるように感じられている。実は消えているんだ。それ(消えること=滅すること)が因となって、また果の身として果の心として、次の名色(ナーマルーパ)が現われてくるというのは誰にもわからないことだろう。瞑想して極度の集中力で観察することによってあるがままの身体と心が見える。すなわち生滅智である。

亡くなられた鈴木一生さんが禅定に入られた時、1,000億と引き換えに禅定の安楽を譲ってくれと言われても断ると言われたその安楽をひとまずわきに置いて、今ヴィパッサナーをしなければいけないと思って呼吸を観察した時に、無数の膨らみが生滅を伴って現れて、そのあと無数の縮みが生滅を伴って現れるのを語っていらしゃったが、一生さんにヴィパッサナーの智慧が生じていたなら、確実に生滅智には来ていたのである。

 

生滅智が生じるというのはものすごい喜びである。自分は知るべきことを知ってしまった。世間は何も知らない。自分はブッダの教えに預かっていて本当に幸せだと心から思えるのである。

 

これは慢(マーナ)である。以下、ウ・ジョーティカサヤドーの「自由への旅」より引用する。私は慢をなくす。(PDF148/273)

 

*もう一つのポイントですが、瞑想者は自分たちの瞑想の進境、
洞察智を、とても自慢に思うようになります。
「私は知っている。私は理解している。これら他の人たちは、
私ほどには知らない」。これはある種のうぬぼれです。
「私は自分が瞑想できることを知っている。私はよい瞑想者だ。私は自分の心を、同
じ対象に長い時間、留めておくことができる」。これはある種のプライドであり、また
満足なのですが、こうした心を観察してください。プライドと満足は、同時にやってき
ます。こうした種類の思考が浮かんだ時は、それを観察する機会を逃さないでください。
観察することができれば、あなたはそれを克服し、それ以前よりもずっと自由になれる
のです。この「私」、「私は知っている」、「私はできる」というのさえ、あなたを限定しています。それはあなたを制限しているのです。ますます自由になりたいと、もし本当に思っているのであれば、その思考を観察してください。それは確実にやってきます。
いかなる種類の達成においても、そこにプライドをもつこと、そして自分がよりよく
なっていると考えること、これは「私」です。一部のケースでは、このプライドをもつ
ということが、非常にしつこくつきまとうのです。だからマーナ(mAna、うぬぼれ)
は、悟りの第四段階によって、はじめて全く根絶され得る。阿羅漢だけが、それを根絶
できるのです。
マーナとは比較のことです。あなたは自分を他者と比較する。「私はよりよい瞑想者
だ、私はできる、私は知っている」。こうした思考が生ずるのを観察してください。そ
れが浮かんでは消えるのを観察することができれば、その思考と自分自身との同一視は、ゆっくりと、そして徐々になくなってゆきます。私たちは起こること全てを、自分自身と同一視する。この同一視のことをマーナもしくはディッティ(diTThi、誤った見方)と呼ぶのです。瞑想を継続的に行う際に、こうしたことどもを克服することができれば、それによって瞑想の過程はより易しいものになる。克服できなければ、それがある種の妨害、障害物になるのです。