馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

あるのは結局エネルギー  物質は存在しない?

生滅智によりモノおよび心の生滅がわかると、疑問が生じる。私の身体は生・滅の波で現れて消える。私が座っている座布もまた生・滅の繰り返しで現れては消える。
私と座布の接点は、私の身体がある時(生のとき)、座布がある(生)もしくは座布がない(滅)の2通り、私の身体がない時(滅のとき)、座布がある(生)もしくは座布がない(滅)の2通り、合計で4通り(4パターン)ある。

 

私が日本テーラワーダ仏教協会に質問してまだ回答がないのであるが、半年前に質問したのは、私の身体が有(ある・生じている)で、座布が滅(ない・滅している)のとき、私の身体は何の上に座っているのでしょうか?というものであった。

 

座布がないとき、座布の下の床に私の身体は接している(乗っかっている・ある)のであろうか。だが、床もまた生滅を繰り返している。つまり、あったりなかったりなのである。

 

床がないとき、私の身体は何の上に生じているのであろうか。地面(土)の上に生じているのであろうか?では座布も床も地面(土)も滅しているとき、私の身体は何の上に接しているのであろうか。

 

私の身体とモノとの関係は、実はその上に乗っかっている(接している)のかいないのかすらわからない。ここまでくると、モノがあるという仮定で話を進めていたのが間違いであると気づく。

 

とりあえず見た目の物理学の世界では、私は土の上に張られた床板の上の座布の上にいるようであるが、それは間違いである。確実に成り立たない話なのである。物理的にはモノの上にモノがあるのだが、真理の世界ではそれは誤り。

 

モノも心もある(有・生)のではない。ない(無・滅)のでもない。原因があって条件がそろっているところで、一時的に生じてまた滅してしまう。滅したはずが、原因と条件によって、また一時的に生じてしまう。

 

物理学がどういう世界のとらえ方をしているのか専門外の私の知るところではないが、モノがあるという前提の上に導かれた諸学問は、すべて正解にはたどりついていない。

 

ヴィッパサナー瞑想で、ものすごく超越した観察眼で自分の身体を見ることによって得られる真理が、因縁法則であり、結局世俗諦の世界で成り立つのは因果法則なのである。アルを前提にしても正しい答えにはたどり着かず、ナイを前提にしても正しい答えには到達しない。

 

モノはない。モノとモノも我々が考えるような、位置関係・物理関係を保ってはいない。物質は究極的には存在せず、あるのはただ地水火風のエネルギーのみである。これもまた驚く智慧である。一般人にはけっしてわからないし受け入れられない。

 

量子力学はモノではく、確率論(波動関数という確率の波・情報)の上に成り立っているそうである。確率というのも地水火風のエネルギーの密度を予測するみたいなものであろう(現れて滅するという生滅の波も含めての確率論。波・波動は結局ふくらみとちぢみなのである。昔のテーラワーダ仏教徒はとっくに物質はナイ、あるなしを含めたエネルギーの密度の確率論であるという正解に到達していたのである。

 

エネルギーというより、正確には機能、役割、英語でいうFunctionが妥当ではないか。
性質といってもいい。