馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

禅定という快楽 —― 性的快楽をはるかに凌ぐ涅槃に次ぐ安楽 

「涅槃に次ぐ」などと題したが、涅槃は楽には楽だが、それは心の働かない楽、まず、サンカーラ(行)が働かないので、心には「~しよう、~せねば」という年中、生命を行動に駆り立てるあの強迫的な「~しないといけない(たとえば外へ出かければ、家へ帰らなければいけない、朝になったら目を覚まして顔を洗わなければならない)」という衝動が抜け落ち、ヴェーダナー(受)が働かないので、身体から痛みなどの不快や快(快という感覚もよくよく突き詰めると不快である)の感覚が一切脱落し、サンニャー(想)が働かないので、概念作用がなくなり、区別や分別作用が消えてなくなり、ひいてはヴィンニャーナ(識)という認識作用そのものがなくなってしまう。

 

 

これによって涅槃(ニルヴァーナ)の世界に入る。涅槃は語り得ない世界である。入った者にしかわからない。地水火風の存在しない世界。衝動も感覚も識別作用も認識もない世界。太陽も月も輝かない世界。マーラ(悪魔)の立ち入れない世界、などなど。

 

 

今わかったことだが、心も身体も機能停止した状態は、「心身脱落」の状態である。心も身体も抜け落ちてしまっている状態。してみると、道元禅師が入っていたのは滅尽定であり、涅槃の世界に入られていたのか。スマナサーラ長老が日本仏教で唯一相手にしているのが禅の世界で、曹洞宗であるのがうなずける。道元禅師はスマ長老曰く、「不還果です」というのも納得。なるほど。この状態が心身脱落か。道元禅師も涅槃を心身脱落としか例えようがないのか。ほかには記録がないので、心と身体を最初に止めた日本人は道元禅師ということになるだろう。めでたし、めでたし。

 

 

 

アジャパーラニグローダ 樹下での禅定から立ったお釈迦様は、ムチャリンダ 樹下に結跏趺坐してまた七日間 を過ごします。この とき、七日の間雨が降り続き、寒気と風に 見舞われました。そこでムチャリンダ 龍王ナーガラージャ)はその 体を七廻りさせ てお釈迦様の体を守り、大きな鎌首をあげて、お釈迦様の頭上を覆って雨風にさらされ ないように守りました。七日たって雨風が収まると、ムチャリンダ 龍王はとぐろを解い て人間の姿に化身し、合掌して帰依を表しつつ 世尊の前に立ちました。そのとき、お釈迦様は次のような偈(げ)を唱えたのです。「足るを知る者に、真理を体験している者に、遠離 (おんり)は楽しい。世間に対して瞋恚( 怒り)がないこと、生命を慈しむ ことは楽しい。この世で 無欲でいること、諸々の欲を超越 することは楽しい。『我が いる』という慢をなくすことは最上の楽しみである」   ムチャリンダ 樹下の 禅定から 立ったお釈迦様は、ラージャーヤタナ樹下に移動してまた七日間、結跏趺坐して解脱の 楽を享受していました。

 アルボムッレ・スマナサーラ. 日本人が知らないブッダの話 ― お釈迦さまの生涯の意外な真相 (スマナサーラ長老クラシックス) (Kindle の位置No.1300-1310). Evolving. Kindle 版.より引用

 

 

 

あえて譬(たと)えてみたが、これは心を止めないと得られないもので、心が止まると身体も止まってしまう(つまり世俗諦の現象世界にはもういない)。禅定も最初は第一・第二禅定くらいで止まっていたから、頭の中は湧き上がる雲と白い光がぐるぐると渦を巻き、体の中は喜びの分子が無数に爆発的に弾け飛んで、どの一秒一秒も幸せで幸せでならず(多幸感)、あまりの幸せゆえに「どんな敵であろうがおかまいない。みんな幸せになってしまえ!」と思わせるほどの落ち着きのないもの(喜びが爆発する感じ)であったが、だんだんこの分子が爆発的に弾け飛ぶのが収まっていき、第三・第四禅定になってくると、平安・やすらぎ・落ち着き・静けさの伴う心地よい秋の黄昏時の木陰で、あるいはレマン湖に浮かべたボートの上で横たわりながら、何の罪も犯していない心安らかな者が、ただ風に髪をなぶられながら、一人静かに日の落ちていく様を眺めるような、透き通った「落ち着きの楽」というか「静寂の楽」へと入っていく。

 

 

その禅定は三日間くらい解けない。ものすごく落ち着いて、じっと楽を愉しんでいる。それが解けた時が、性的快楽でも試してみようかなというひと時。しかしシコシコと何分か擦り上げ、液を出して終わりだから、涅槃や禅定と比べると、ばっちいし、喜びの劣化のほどは、はなはだしいものがある。

 

 

禅定に入らぬかぎり、人間の楽も、神々(六欲天の神々)の楽も、肉体から得られる快楽を超えられない。肉体にリミット(限定)されている。リミッターが切れた禅定の楽はすさまじい。涅槃はもう、たとえようがない(比較できない)ものである。仏教とは極めるところ、リミッターのない喜びの(苦のない)世界を求める心の旅である。

 

心を究極まで清らかにする。十悪を行わない。妄想を止めて、二度と妄想しない頭に変えてしまう。すなわち大脳新皮質が原始脳をコントロールする、そういう脳の回路の配線状態をつくりあげる。これによって現象世界=輪廻転生より解脱する。釈尊の発見された科学より超科学的な手法によって到達可能な世界。決して黙示録とか最後の審判という予言は成り立ちえない現実(現象)世界。複数の原因が複数の条件下でビシバシと当然の結果を出し続ける現象世界の無数の因と果が複雑な条件下で絡み合う、そこで予言を行うことはあり得ない。意志もまたパラメーターのひとつ。自由意志(free will)は存在しないが、運命と業とは異なる。意志の働きで未来は変わる。自由ではないが、変えられるのは意志であり、意志だけを人間はコントロールできる。だからカルマ(業)は意志ですと歴代の正等覚者は口をそろえて同じことを言う。彼らはすべて業果論者。釈尊ですら予言はしないし、できない。同じことは二度起こらない世界。