馬越康彦の日記

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手に取るように過去を思い出す(宿命通)智慧

今世に関してではあるが、過去の出来事が、ありありと手に取るように思い出されてきた。それを経験した時以上にありありと思い出すことができる。ここに因果法則の智慧が組み合わさると、理屈の上ではどこまでも過去を思い出せそうな気がする。

 

 

今の段階ではインパクトの強い事象を、あたかも今経験しているかのように思い出せるのだが、なぜその行為を選択したかという事が、右足を踏み出したら次は左足を踏み出さねば進まぬように、どうあってもその行為を選択したのが因果法則上当然の行為の結果であると紐づけられれば、あとは芋づる式にあれよあれよと次から次へと行為が繋がってしまうはずなのである。

 

 

スマナサーラ長老の「沙門果経」では、炊きあがったご飯がある→炊飯器のスイッチを入れた→米と水をあわせた→乾いた米があった というように、あるいは靴を履いてから靴下を履くことができないように、靴下を履いてから靴を履くように、すべての物事は順番で起こる。我々はそれに気づいていないだけで、長老によると歩く時どこの横断歩道を渡るかも、きちんと理屈があって我々はそれを選択しているのである。ただ何となく渡っているように見える横断歩道ひとつとっても、自分はなぜそこの横断歩道を渡ったのか、きちんと順番があって(因果法則通りに)選んでいるのである。

 

 

「沙門果経」では今から思い起こして、一日の始めまで思い起こす訓練法が書かれている。因果関係を見るためには、ビデオテープの逆再生のように過去を順番で思い出す訓練をするそうである。

 

以下は引用です。

〝このようにして、心が、安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、行動に適し、確固不動のものになると、かれは、過去の生存を想起する智に心を傾注し、向けます。かれは、種々の過去における生存を、たとえば、一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、また数多(あまた)の破壊の劫(こう)でも、数多の創造の劫でも、数多の破壊と創造の劫でも、つぎつぎ思い出します。「そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色(いろ)があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでもこれこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、ここに生まれ変わっているのである」と、このように具体的に、明瞭に、種々の過去における生存を、つぎつぎ思い出します。

それは、大王よ、たとえば、人が、自分の村から他の村へ行き、その村から自分の村へと戻って来て、「私は、自分の村からあの村へ行った。そこでは、このように立った。このように座った。このように語った。このように沈黙した。また、その村からかの村へ行った。そこでも、このように立った。このように座った。このように語った。このように沈黙した。そして私は、その村から自分の村へと戻って来ている」と、このように考えるようなものです。