馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

病理哲学

体媒師という存在
霊を媒介する霊媒師という存在があるように、自分の身体を人の通信手段として提供する体媒師というものがあり、どうやら私は父の病を体媒しているようなのだ。父親と同じ痛みを持つことはあるのか?答えは「ある」だ!
私は初め、何ていう迷惑なことをしてくるのかと怒った。元気でぴんぴんしていた私の身体を父の病が昨年11月中旬からずっと支配し、私は病に辟易している。他人(所有という観念から遠く離れたつもりでいた私が、こと肉体に関しては自分が所有していると固く信じていたのだ)の病が、自分の中に入ってきていると考えて、ひどく不快だった。他人が私を使って私と共に生きようとしているのだ。他人よ、自分の足で立ち、自分の足で歩け!
父が私の身体を使っている。でも父が歿したら、誰かが私の健康な身体を使って生きようとするかもしれない。霊媒ではなくて、体媒師なんだ、私は!
病が他人にうつる理由。病は病自体の持つ重みに耐えきれず、癒されたい、浄められたいという強い思いが、健常者をして病の持ち主へと代えてしまう。
結局全人類が一つである理由。病は自分だけのものではないということ。元気な者は元気であるうちにフロントを切り拓け!病の持ち主の分まで生き、人類を導け!フロントに立って戦っていた者もやがてエッジに立たされ、病を得たり、死んで一線から外れる。だからそれを引き継ぐのは平和で五体満足な者の使命なのだ!
おお、恐ろしい!病を持つ老人二人の中に入れば、いかな健常者でも20日間で体も心も病む。老人には責任はない。それでもどういう仕組みかわからないが、老人の中にいると、病が伝染してしまう。私がキリストのように老人の病を浄め、彼らに生を与えて廻るのではなく、こちらが彼らの病をもらい、倦み疲れ、線維筋痛症もどきの症状を呈するのだ。ああ、恐ろしい、老人存在!彼らは好むと好まざるに関係なく、健常者を病人にし、歩く者を足萎えにし、皮膚を業病で覆い尽くす。まことに恐るべきは老人であり、病である。彼らはにこやかに笑っていた健常者の顔を曇らせ、やがて彼ら同様にしかつめらしい表情へと変えてしまうのだ。
仕組みがどうなっているのかわからないが、老人を媒介して老人臭さとか病は健常者をとらえる。老人や病人を健常者から隔離する合理性というものを私は身をもって体感している。理屈など抜きだ!人は私を非難するかもしれない。老いた者・病む者を労わる気持ちを持たない奴だと。だが、なんと非難されようが、私は健常者でいたい。健常者でいられないのならば、私は老人を浄めたい。彼らに再び若さをもたらし、澱んだ気持ちを晴々したものとし、足萎えを立たせ、らい病人を浄め、耳しいを聴こえさせ、癌患者をもとの体に戻し、くるめき病人に平衡感覚を与え、この世に光をもたらさん!
生老病死が四苦ならば、思い通りに生を生きる力を我に与えよ!
エスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつきの盲人なのは、だれが罪を犯したためですか」。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネによる福音書第九章より)
釈迦出家の動機を説明する伝説として四門出遊の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老も病も死もある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったという。
エスと釈迦。病とはどのようにとらえるべきものか?
「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」(ヨハネによる福音書第十二章より)
われ、おん身のために再び略して説こう 観音のみ名を聞きなさい みすがたを拝みなさい 心に念じなさい このようにして空しく過ごさなかったら すべての苦から必ず解放される 
害意を持たれて 火の中に落とされても 観音を念ずれば 火の坑(あな)は池と変わる
大海に漂流して 波風は激しく荒れても 観音を念ずれば 波に溺れることもない
須弥(しゅみ)の峯からおし落とされても 観音を念ずれば 宙に浮かぶ
金剛(こんごう)の山頂からつき落とされても 観音を念ずれば 怪我もしない
賊の白刃のふすまに囲まれても 観音を念ずれば 彼らの心も和らぐのである
暴政のために 刑死しようとするとき 観音を念ずるなら 刀はにわかに折れて 命は救われるのである
手かせ足かせの 責苦にあっても 観音を念ずるとき この苦しみから脱しられる
ねたまれたり 中傷されたりして わが身が危機にさらされても 観音を念ずるなら 怨みも憎しみも あとかたもなく消えてゆく
羅刹や 毒竜や 鬼たちに出会っても 観音を念ずれば 危害を受けずにすむ
猛獣にとり囲まれ 危難にさらされても 観音を念ずれば おそれをなして いずくにか逃げ去る
毒蛇やまむしに襲われて 火焔の舌を吐かれても 観音を念ずれば 念仏の声とともにすがたをかくす
雷鳴とどろき 雨あられ降りしきるとも 観音を念ずれば ただちに鎮まるのである
ひとびとよ 災いにあい 苦悩に耐えかねても 観音の知恵は 必ず世間の苦を救う
(観世音は)神通力と 広大な知恵の方便によって どこにでも在(いま)すから いつでも観音様に めぐりあえるのである
さまざまな悪趣 地獄 餓鬼 畜生 さらに誕生 老衰 病い そして死の苦しみは(観音を念ずれば)しだいに消えてゆく
清らかな眼 慈しみの眼 理性と知恵の明らかな眼 あわれみの眼 汚れなき眼は 世の闇を照らす