馬越康彦の日記

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永遠の命

『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる、見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか・・・』
何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった・・・彼は両手をひろげ、叫び声をあげて、目をさました・・・
「わたしはよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
今日、サイコキネシスを使って工事を止めた。もうよほど前から、観世音菩薩様の力をお借りすれば、ほとんどできないことはないくらい――天候ですら菩薩様は自在に変えられることを知った時の私の驚きは幾ばくのものか、にわかには読者は信じられないでしょう――それほどの力を手にしている。でも病はどうにもならない。線維筋痛症、これだけは如何ともしがたい。それでも希望は続く。