馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

無我(非我)の境地に達する。ニルヴァーナへ行ってきた。梵我一如を体験した。

先日ある人に会って、こういう経験をしたよと話したら、「それは無我の境地ですよ」と言われた。今振り返ると、個人的には梵我一如を体験したと思っている。自分の日記を見ると、その時のことを「天にいた」と記してあり、プラスグーグルには次のように記してあった。平成27年2月15日の日曜日のことである。文中出てくる「痛みもなく」というのは昨年12月から患っている右腕の痛みやしびれのことを指している。


〝ある境地、いや正確に云うとある世界へと辿り着いた。静かで音がしない。寒くもなく暑くもない。時間の経過に関する感覚は一切なく、五分の事なのか未来永劫の事なのかわからないし、気に掛ける必要も感じられない。痛みもなく空腹感もなく眠気もなく、すべての地上的なものから解放され、ただ光が射しているのを感じる。射すというより差すという感じだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。すべてが完全に充たされている状態で、食事を作る必要もなければ、掃除をする必要もない。もちろん身体は何も欲していないし、病につきものの痛みからも解放され、ただいるという感じである。ただいるのだ。何かこの世界にいるのだが、目を上げるとハンガーに吊るしてある自分のシャツに淡い光が当たっているのを不思議に眺めていて、自分が見ているのに、他人ごとのような感じ。
この時個人的にはもういいや――それは投げやりなものではなく、世界が完全になっているのでもう何もする必要がないやという感じである――と思えた。
望めばこの時間がずっと続いても不思議ではなかったのだが、自分でこの時間を壊しにかかり、やがて父が部屋から出てトイレへ行き、音がし始め、また元の世界へと戻った。
世界と接触する人は大勢いる。触れたり見たり感じたり。それを色々な芸術手段によって、俺こんなもの見たよ、私こんなこと感じたのと他の人々へ語って聞かせる。それは共感を生み、創作意欲となるのだろう。ところが、ある地点に達すると、それ以上動くと世界の調和が壊れるという、不思議な感覚にとらわれる。もう創作する必要がないし、こうやって聴かせてやろうとか、こうやって読ませてやろうとか、そういう努力を必要としない地点(世界)に達することができるのだ。
自分が世界となっていて、世界が自分となっている。世界の先端に立って自分の見るもの触れるものを、人々に触れて廻ることから解放され、ただもう自分が世界そのものとなっている奇妙な感覚。自分というものから解放されてしまった感覚。自分の事なのに、他人事のような感覚。
悟りに達したときは晴れ晴れとした、大気がどこまでも青く澄み渡っていく感じで、敵も味方もみんな幸せになってしまえという多幸感を覚えたが、世界が自分となり、自分が世界となり、難しい話はさて置き、完全な調和の中にいる自分を発見した。
「もうこれで終わってもいい」という感じさえしない。始まりもなければ終わりもなく、ただずっと「私はいます。私はある」という感じだけがするのだ。いや、もうあるのかないのかすらわからないし、それはどうでもいいことだ。自分が滅し去った感じだ。
死ぬまで修行、死ぬまで俳優、死ぬまで現役、死ぬまで作家、死ぬまで歌手などと云う人がいるが、私の人生はそういう人生ではなかった。ある地点に達すると、世界や宇宙と一体となり、そこで終わるわけでもなければ、そこから始まるわけでもなく、ただそこに到達してまだ命が尽きていないという現実があるだけのことなのだ。
私はこれからも生きていくし、飲み食いはするし、眠りもするだろうが、確実に覚醒したものとしての歩みがあるだけのことである。”


この時のことは今でも覚えている。世界というか宇宙と一体化した(正確にいうと一体化したのではなく〔自分=宇宙〕を知る(体験する)ということ)と体は悟ったのである。このままずっと壊れないでいてくれよと思ったが、そう思った瞬間から「諸行無常」が頭を走り、何かがこの落ち着いた世界を壊すだろうなと思っていたら(まず諸行無常が頭を走り、この幸せな時間も終わりが来るのだと思うと自分から幸せな時間を壊しにかかり)、そして父が隣の部屋から起きだしてトイレへ入っていったのだった。あとは鳥のさえずりや子供の声が聞こえだし、幸福な時間は終わったのである。
影山教俊の瞑想研究ラボ : 自我意識が停止した体験とは
「奇跡の脳」脳卒中体験を語る / ジル・ボルティ・テーラー - YouTube
私はこれから幸福の伝道師として生きようと考えている。皆さんに覚えておいて頂きたいのは、私は瞑想する習慣がなく、溢れるほどの多幸感を味わった時も、ニルヴァーナを体験した時も、瞑想とは疎遠な生活を送っていたということである。瞑想なしに多幸感やニルヴァーナに至ることはあるのだ。

多幸感の謎(なぜ多幸感は訪れるのか) - 馬越康彦の日記

涅槃(ニルヴァーナ)を体験したのは、もう一度ある。昨年(平成26年)11月12日(水曜日)の午前9時53分から10時46分までの間のことである。この時は白い光に包まれ、やはり暑くも寒くもなく、犬の鳴き声も鳥のさえずりもなく静かであった。この時は下から父が上がってきて、静寂が壊れたと記してある。多分これから何度もこういう体験をすることになるのだろうから、(ニルヴァーナにいるときは幸せで何かを書き留めることはできないが)、ニルヴァーナから現実世界に戻った時には、どういう状況で体験したのかもう少し克明に記すように努めようと思う(正確にはもう一度体験している。平成27年2月6日に涅槃にたどり着いたと記していた)。
https://plus.google.com/115235386349483433940/posts
ニルヴァーナを体験したというよりは、梵天の世界で存在したという経験のようだ。それにしても静かで、時間の流れを感じず、寒くも暑くもない世界で、ただ慈悲の心に満たされて、どこまでも清らかな世界である。この世界に生まれ変わりたい。

2016.12.20*この世界に生まれ変わりたいなどといったが、浄居天以外は梵天といえど、その永い寿命を全うしたのちには、再び輪廻転生してしまう。今や望むのは解脱のみである。また解脱できるいいチャンスである。


大袈裟にニルヴァーナに達したなどと言ったが、正確には一来果に達したそうである。不還果に達するためには、最低もう一度だけ「無我」を「体験」しなければならないとのことである。西洋哲学を学ぶことが長かったが、昨年多幸感を味わい預流果に達してから、一来果にくるまでに一年かかっている。禅定に入って梵天界に遊ぶためには、禅の道を進まなければいけないことがわかってよかった。
禅定は九段階 | 日本テーラワーダ仏教協会
 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果((よるか))のほうがすぐれている。(ブッダの真理のことば・感興のことば「岩波文庫」 第13章 世の中 より)
禅定でいうと無色界等至の三番目の無所有処に来ている。多幸感で満たされ、青々とした空がどこまでも澄みとおっている感じは、まだまだ色界第三禅の段階だったのである(悟りだと早合点してしまったのだ)。それをはるかに過ぎてしまった。ここまで進むと虚空がどこまでも広がってしまい、正直怖い。このまま欲をなくすと人間でなくなってしまうような、そうした生き物としてすべてを失うような、とてつもない怖ろしさにつきまとわれている。少し、いやかなり恐怖している(ヤバい)。だがこのまま進もう。預流果には達しているのだから、あとは流れに従っていくだけである。
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html
平成27年7月26日 虚無感から脱し、あたたかい慈愛に支えられている自分を発見する。虚無感にさいなまれている時は、時空を超えた場所へ何度か連れ去られた。時としてまったく知らない場所と時間であり、時として日誌に記しているように懐かしい場所へ行ってきた。味覚が全くなくなる存在にもなった。人間でありながら味覚がしないというのは実につらい体験であった。
以下私の5月9日の日記より抜粋
〝何を食べても美味しいとも何とも思わぬ。何ものにも関心をもてない。夏日を記録しているのに寒々しい。・・・私はあらゆる所を行ってき回った。およそ私の中で考えられるすべての時間を私の夢の中で、私はあっという間に、あの懐かしい場所、あのかぐわしい場所へと行ってきた。”
平成27年7月30日 すべての時の変化が、事物の生滅の絶え間ない連続であることを体験。すべての瞬間にすべてのものが動いていることを、止まった一コマを眺めているように把握。すべての事象が絶えざる静止した一コマ一コマの永遠の動きであることを、マトリックスのコードがザーッと流れていく中で、止めるようにつかむ(諸行無常)。
平成28年6月3日 一年前はできていたのに、今ではできない。ものがずっと変化して動いていく(生滅)、その生じては滅したところを止まるようにつかまえていたのだが・・・。
平成27年8月9日 非我にしても梵我一如にしても、グーグルの検索で上がってくる答えには、それを体験した者として、至極妥当な説明がされているなと感心する。嘘をついているものはない。でもやはり実際に体験した者と辞儀解釈で辿り着く者との差ははっきりしている。僕のつたない説明では伝えられなかったことまで整然と記しているのに、彼らはやはり体験し得ないのだから。気持ちよさの程度からいうと、頭の中で白い光が渦を巻いていて多幸感にどっぷり浸かっているほうが(それは光が大海原のようにあまねく輝いていて、その光の波の中で幸せいっぱいな幸福感に包まれているのだが)、無我とか梵我一如よりはるかに気持ちがいい。だがそれは、色界第三禅の段階であって、まだ先にはいくつもの段階が待っている。
最近は「ぶっちゃけ寺」とかNHKアーカイブス「高野山」などいろいろな番組で、梵字の「ア」の字を見つめて、その向こうに宇宙の真理を見る修行法が説かれているが、正直こんな気の遠くなる修行をしていても個人的には梵我一如や無我には達せられなかったろうと思っている。こういうことを書いていいのかどうかためらわれるが、僕が無我あるいは梵我一如に達した時は、瞑想はもちろんしていなかったし、ここだけの話、昼寝をして目覚めたら達していたのだから、修行というのは万人に共通なものではないのだとつくづく思い知らされた。それどころか、ここ二か月ほど、岩波文庫の「ブッダのことば」や、「ブッダの真理のことば・感興のことば」を読んでいると、「目覚めておれ」とあって、「・・・眠りを好み、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、・・・くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。」とあるではないか!とてもじゃないが、寝て、目覚めて梵我一如を知れとか、ニルヴァーナを体験しろとは言い出せない雰囲気にある。だが、個人的には、横たわっていたほうが、無我の境地に達しやすいと思う。瞑想をしているとも寝ているともつかぬ微妙な状態で僕は三度、梵我一如を経験した。体験した当人にとっては、この境地に至れないからと荒行したりする人の気持ちのほうが推し量れない。体験とは不思議なものだとつくづく思う。


平成27年10月22日(木)さらなる無我(非我)を体験する。おおよその手続きは次の通り。 まず、あたりが静かになる。何となく自分という存在があるのだなと感じる(この段階では自分は消えていない)。 → ただ、ただ「あるのだ」と感じる。 → 世界や宇宙と一体化して、時間の経過を気にかけず、森羅万象が存在するように存在するのだという感じになる(普遍的に存在するようになる)。 → 自分があるのではなく宇宙や世界があるのだとわかるようになり、そのように一体化する(これをワンネスというらしい)。 → 自分が消えていることに気付く → 自分というものは存在しないのだということを(存在しないはずの自分が)知る・納得する(無我((非我))を悟る=梵我一如。有身見が消える)。 → 周囲が動き出し、静寂が破れ、日常(自分・自我)に逆戻りする。だいたい30分くらいの出来事。
論理が飛躍しているとすれば、私の体験を思惟という作業によって追いかけているので、そのように見えるからかもしれないが、おおまかな流れは以上のようになる。体験というものは思惟では追いかけられないのかもしれない。

平成27年12月26日(土) より遥かなる心境の開拓のためヴィパッサナー瞑想を個人的に始める。
平成28年1月4日(月) 人生に非常に満足している。体がもう邪魔になってきた。



平成28年1月22日(金) ヴィジャヤー尼

〝サーヴァッティー市がゆかりの場所である。
そのときヴィジャヤー尼は、早朝に衣をつけ、鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。
サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、昼間の休息のために、うす暗い密林に入った。うす暗い密林をかき分けて入って、昼間の休息のために、ある樹木の根もとに座していた。
そのとき悪魔・悪しき者は、ヴィジャヤー尼に、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想から離れさせようとして、ヴィジャヤー尼に近づいた。近づいてから、ヴィジャヤー尼に向かって、詩を以て語りかけた。――
「あなたは若くて麗しい。わたしも若い青年です。貴婦人さま。さあ、われらは五種の楽器で楽しみましょう。」
そこでヴィジャヤー尼は、このように考えた。――「詩をとなえているこの者は、誰なのだろう?人間なのであろうか?あるいは人間ならざる者なのであろうか?」
次いでヴィジャヤー尼は、このように思った。――「これは悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、瞑想をやめさせようとして、詩をとなえているのだ」と。
そこでヴィジャヤー尼は、「これは悪魔・悪しき者である」と知って、悪魔・悪しき者に詩を以って語りかけた、――
「心を楽しませる色かたち、音声、美味、芳香、触れて感じのよいもの、――これらをわたしはそなたに引き渡そう。悪魔よ。そんなものに用はないからです。病患になやみ脆いこの臭穢の身体を、わたしは嫌になって、恥じるのです。愛欲の妄執はもはや根こそぎにされました。色界におもむく者どもあり、無色界にいる者どももいるし、〔八種〕の禅定なるものもあるが、それらすべてにおいて暗黒は滅ぼされている。」
そこで悪魔・悪しき者は、「ヴィジャヤー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。”(サンユッタニカーヤ 「悪魔との対話」より)





平成29年3月2日 梵我一如というのは「一即一切」というのと同じであると、スマナサーラ長老の著書を通して納得がいく。以下引用。
〝「一即一切」などと言ってしまう心のはたらきは、理解できなくもありません。宗教者がまじめに修行すると、ときどき神秘体験のたぐいの経験を得ることがあります。「我を忘れてしまった。無我になった」というような経験も、あるのです。サマーディ冥想、ヨーガ冥想などの場合は、たまに、なにか自分が消えてしまったような気がすることがあります。そのような経験が起こる場合、認識が混乱することなく、一時的に心の波動が一定になるのです。その瞬間に、あれこれ認識することが停止します。本人にとっては、びっくりする経験です。それから、その経験を知識で理解しようとするのです。知識では「ゆえに、一即一切である」という言葉になるのです。「自分が一切(森羅万象)と一体になりました」と理解するのです。そのような体験があっても、人はそのままで、人格が変わることはないのです。・・・。だから「一即一切」と言ったって、そんな大層な教えではないのですよ。”

アルボムッレ・スマナサーラ. 「1」ってなに? 〜生きるためのたったひとつ〜 (初期仏教の本) (Kindle の位置No.259). Japan Theravada Buddhist Association. Kindle 版.より


梵我一如、一即一切に至ったのは事実であるが、それによって人格が向上したわけではないのもまた事実。貴重な経験には違いないが、自分はやはり解脱したい。今まで以上に波羅蜜を完成させるべく人格向上をずっとキープしていくつもりです。