馬越康彦の日記

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禅定

禅定は果たしてまぐれか、それともしっかりした原因があれば必ず起きる因果関係のものか?たまたま禅定に入ってしまう人というのは確かにあるらしい(*注1)。禅定の経験はずば抜けて気持ち良く、百億円と引き換えにしようと言われても拒否する代物ゆえに(cfhttp://www.geocities.co.jp/noboish/case/syukyoka/sujuki-issyo.htm)、「今ではネットでは読めません。直接鈴木先生の本にあたってください。2019.8.24現在)普通の人が禅定を経験すると、一生に一回だけでもその記憶を思い出して満足して終わってしまうもののようだ。それほど禅定の経験は強烈で、代えがたいものである。とくに第二禅定くらいが一番、喜の要素が強く、喜悦感に満たされ、喜悦感の虜になってしまうから、厄介である。禅定といっても因果関係のうちに成り立っているものだから、ある条件が揃っているときに、結果として出てきたものにすぎず、原因がなくなれば、結果としての禅定もなくなってしまう(壊れてしまう)のは当然の理である。
禅定による喜悦感はとても強く、これを追いかける人は結局、仏道の真の目的たる「悟り」・「解脱」に到達できなくなってしまうので、あの喜悦感を一度経験し、とらわれてしまうと仏道修行の邪魔になるのは確かである。
禅定の経験が忘れられずに、どういう条件があると結果として禅定が現れるかという研究をする人もいるくらいなので(cf[ブレインハック] 実装済みの機能 - RinGoon POP!!)、スマナサーラ長老は度々、禅定の喜悦感を無視して先に進むように指導されているようである。禅定は途中経過なのである。目標ではない。目標は「悟り」であり、「解脱」である。


注1:たまたま禅定に入ってしまうということはないらしいので、以下にリンクを貼っておきます(2017.3.19)。
仏教日記: 三因について
ただ、これを読んで、瞑想に関心がなくなってしまわなければいいのだが…。
二因では禅定を作れないとか悟ることができないという考えに対して、スマナサーラ長老はこう考えておられます。


スマナサーラ長老との問答(善行為と智慧/殺生戒と輪廻の矛盾・等) - Togetter


スマナサーラ長老というのは本当に人格者なんだなとつくづく思い知らされます。日本にこれほどの人格者がいるでしょうか?こういう人格者を見ると、同じ人間として生まれてきて無駄じゃなかったんだと心から思います。死んでからも持っていけるのは人格だけですから。長老というのも相応しくないような気がします。尊者といったほうがいいのではないかと。(2017.4.29)


自分は決して頭がいいわけではないから、多分二因だろうと思います。二因で、しかも瞑想をしていたわけではなく、ある夜(2014.2.17(月))、光に包まれて喜悦感の虜となって禅定に達してしまったわけですから、二因だと無理という話は、アビダンマの方に問題ありとする(問題というわけじゃないですけど)スマナサーラ長老に従って、あまり杓子定規に考えなくていいのだと思います。何より結果は禅定経験者には明らかなのですから。私が二因か三因かは、自分にも分からない訳だし。



以前にもスマナサーラ長老の著書「沙門果経」から抜粋したが、もう一度抜粋しておこうと思う。

〝光の玉(魂)が、自分の身体の中に入ってきた」とか「巨大な光に自分が包まれて溶けてしまった」という神秘体験を語る人もいるのです。この場合は第三禅定に似ています。ほとんどの人は、サマーディ状態を光として認識するのです。中から光が外へ出ても、外から来た光に包まれても、修行者は並々ならぬ喜びを感じるのです。”
〝その人々の神秘体験は、嘘ではありません。実際に瞑想して禅定に入り、究極の喜びを感じているのです。一般人には針ほども、そういう喜びを感じることはできませんから、彼らがその神秘体験について語る場合には、頭を働かせて語っているのです。”

〝仏教では「同じ禅定に繰り返し入って、いとも簡単に入れるようになりなさい」と言います。また、禅定の領域を延ばすという訓練もあるのです。回数を重ねて、同じ禅定にサッと入れるように訓練するのです。一度入っただけで、二度と入ることはできない人もいるかもしれません。その場合に残るのは「いいことを経験した」という充実感だけです。ほとんどの人は、一回でもその禅定に入ったら、その充実感でほぼ一生過ごせます。たった一回だけでも禅定体験があれば、一生それを忘れないのです。禅定の経験はそれくらい強烈な喜びなのです。
しかし仏教は、そこで終わらないように、親切に注意するのです。強烈な経験を得た人が、死ぬまでそれを忘れられない気持ちは分かります。禅定の経験は強烈なだけではなく、喜・楽などに満たされることで心は清らかになるのです。でも日常生活に戻ればいろいろな苦しみや問題があり、あの喜悦感はあとかたもなく消えることにもなります。それはつまり「禅定がなくなった」ということです。しかし、経験を得た人は、「かつてすごい経験を得た」「喜悦感を感じた」と自慢の気持ちを抱くだけで、今の心が汚れていることに疑問を抱かないという状態に陥りがちです。禅定を光などの現象で説明せず、喜・楽などの心理要素で説かれているのは、修行者が禅定を壊すことなく、持ち続けられるようにとの配慮からなのです。”(アルボムッレ・スマナサーラ著「沙門果経」より)




また私が、酒を飲んでいても禅定に達するなどと言ってしまったことから、五戒を破っていても大丈夫だとの誤った見方が一部にあるらしい。何度も申し上げるが、禅定もそれが起きる原因があってこその禅定(結果)なのだということをよくわかって欲しい。仏教が説く因果法則は科学同様に普遍的な原理・原則である。私の場合はこれこれであって、あなたの場合はしかじかだなどというケースバイケースのものではない。だれでも釈尊の言うようにすれば、悟りに達するし、それゆえにこその「来たれ、見よ」なのである。だから五戒程度は当然守った上での結果が禅定であると思ってほしい。また禅定にとらわれてもいけない。最終目標は解脱であり、禅定なしでも阿羅漢果まで悟ることはできるのだから、喜悦感などの体験をいくら聞かされようと、真面目にヴィッパサナー瞑想を続けることのほうが、遥かに修行になっていることを忘れてはいけない。ヴィッパサナー瞑想を続けること以上の善行為・功徳はなく、それ以上に悟りにつながる早道もないということである。




〝精神世界と同じ気持ちで瞑想に励む人もいる。彼らは禅定などで体験する純粋な至福感、喜悦感に執着する。禅定に入ったら、当然、穢れの無い、まじりっけの無い、幸福感を感じる。ある女性が瞑想して、そこを感じた。見たら分かりましたけど。そこで、どれ程愚か者かというと。私に攻撃しようとする。「先生は感覚は何でも苦だと言っていますけど、苦しみの無い感覚もある、それに付いて話したい」と。これっきり、この人は来ない。と分かった。瞑想が上手くいっているから進むように助けてあげたいのですが、仏教を侮辱するでしょう。そうすると本人のあの徳が、仏縁が、切れちゃう。本当に可哀相だと思いますが、私にはどうすることも出来ません。
だから禅定の喜悦感を感じたんですよ。それは瞑想に入って、その境地に入った時だけでしょう。そこが終ったら何のことも無いでしょう。無常でしょう。よく覚えておきなさい。と。言いたかったのはそれだけ。全て感覚は苦である。と、言われても。
これは私が言っているのではなくブッダの言葉ですから。だから可哀相に地雷を踏むんです。踏んだら知ったものではありません。
だから瞑想をすると喜悦感、至福感が生まれる。問題は、ご飯を食べると噛まなくてはいけないし、手は汚れるし、服が汚れる、ムチャクチャですよ。で、嫌なことがたくさんある中で、あ、美味しい。と、感じなくてはいけない。音楽を聞きたい、と思っても、あちこちから雑音が割り込んで来る。その中で音楽を聞かなくてはいけない。だから楽しめないんです。汚れが一杯入って。瞑想して禅定に入った時だけ、この汚れがなく、いわゆる純粋度99.99%。で幸福を感じる。だから決まって執着します。執着した途端、傲慢になる。その傲慢さは手強い。たとえ、我々にしても破ってあげることはできない。それで不死の境地に達した。と勘違いする。禅定に対する執着、梵天に生まれ変われるように期待する執着も、この類です。”(スマナサーラ長老 法話210より抜粋)
*昔houwaという法話がネットにあって、それをワードにコピーしていたのを、ここで貼り付けしました。このhouwaというのは間違いなくスマナサーラ長老の説法を転載したものだと思っています。マハーカッサパ尊者の話とか、慈悲の瞑想の功徳とか色々載っていてとてもありがたかったのですが、今はありません。日本テーラワーダ仏教協会にもこのhouwaがもう一度読めないか確認のメールを入れたのですが返答のない状態です。ああ、もう一度読みたい。





〝禅定の経験に入っている修行者の禅定は何かということは、人間には考えることが不可能です。考えてはならない、考える人の心は狂気になります。”
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実 初期仏教の本 (Kindle の位置No.96-97). Japan Theravbada Buddhist Association. Kindle 版.より引用





またこのようにもあります。以下引用。
〝「原因が揃ったら、すぐそこで結果が出るのだ。そこに時間がかかるならば、それはその原因ではない」というふうになっているのです。ですから、「何々禅定を作ったのだから、 死んでからその何々梵天に生まれる」とアビダンマテキストには書いてありますが、本当は、禅定の心を作ったならば、その人には、その瞬間からも、良い結果が得られます。第一禅定であろうと、第五番目の禅定であろうと、禅定を作った人にとっては、平和な心、慈しみの心、喜悦感、幸福感を味わえる心が、すぐに作られます。ですから禅定を作った人は、その瞬間から、本当に落ち着いて生活できるはずなのです。今まで混乱しながら、悩みながら、いろいろな苦しみを味わいながら、心の激しい波でありとあらゆる精神的なストレスで悩んでいた人が、もし禅定を作ったならば、それっきり、もう一切ストレスがなくなってしまうのです。心は平安で落ち着いて、充実感を味わいながら生きるということができる。ですから、禅定に達したら、それですぐに、かなり高度な心の波が生まれます。すごく高次元的な心が生まれるのです。
とにかく、禅定は大変高次元的な心で、人間のレベルも乗り越えていて、そういう人々はかなり落ち着いて、無執着の心で生きることはできるのです。”
アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダの実践心理学〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析 アビダンマ講義シリーズ (Kindle の位置No.4588-4589). samgha. Kindle 版.より



そういう、物質とか身体が心にとって邪魔だという考えも、人間に考え出すことは可能 なのです。なぜなら、お釈迦様の時代にインドでそういうことを考えた人々がいたのだから。瞑想して、第四(アビダンマでは第五)禅定を得て、その人が何を体験するかというと、自分の心の成長のプロセスを邪魔していたのは、身体であると理解するのです。「では、我々の瞑想は誰が邪魔しているのですか」と調べてみると、邪魔しているのは、ほとんど身体なのです。おなかが空く。眠くなる。足が痛くなる。それで瞑想する気持ちにならない。テレビを見たくなる。「新聞をちょっと読んでから瞑想しよう」と思ったり、そういう ことで瞑想が後回しになる。やっとやり始めても、「早く終わらなくちゃ」とか、「もう八時になったから早くやめなくちゃ」とか、「瞑想が終わったら何をしようか」などと、いつ でも物質世界から我々の心の成長を徹底的に邪魔しているのです。そういうすべての考え は、身体のことなのです。ですから、身体が瞑想の邪魔をしているのは、明らかです。朝五時に瞑想を始めた。うまく瞑想が続いている。たとえば六時までやって、「まだできるぞ」 と七時までやると、「ああ、もう七時になったからやめなくちゃ」と、やめるでしょう。「朝 ご飯を作らなくちゃ」とか思って。なぜそうなるかというと、身体のことを考えるからなのです。「九時に約束があるから、もう準備しないと間に合わない」などという約束事も、 それも身体のこと、物質世界のことなのです。ですから誰の瞑想にしても、心の成長を妨げているのは、身体なのです。

アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダの実践心理学〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析 アビダンマ講義シリーズ (Kindle の位置No.1062-1063). samgha. Kindle 版.より



仏教のありがたいことは、禅定にせよ、預流果にせよ、全人格的に報われることです。いい状態にあるのなら、それは過去生で善行を積んできた波羅蜜のおかげなのです。自分など社会的には何の地位もない人間ですが、禅定に達しているのは、やはりそれなりの原因があるからなのだと思います。仏教はすべてが結果を出します。やっていて損をする善行為なんて一つもありません。お釈迦様が、4阿僧祇劫以上もの天文学的な長い輪廻転生で人格を磨き上げてきたように、善行為を惜しまずに積み重ねることです(人格を完成させようとすることです)。
不思議です。カルマというのはすべて結果を出します(既有業もありますが)。悪いことをすれば必ず報いが来ます。善いことをすれば、これ以上望まないほどの幸せが来ます。
時間差というのがあって、さらに自我というのがないから(無我だから)、なかなか人間には因果関係はわかりにくいのですが(私は5年ほど前は徹底して因果関係を否定するという邪見に陥っていたのですが)、すべてのものごと(現象)は、原因があって結果があります。
人を助けて損をするということはあり得ません。カルマは完ぺきな因果法則の上に成り立っています。
生きているうちになんでもいいから因果法則を体で知ることです。頭では簡単に理解できます。体で納得しないと悟りにつながりません。


2017.8.26(土) 離欲(ネッカンマ)と遠離(おんり)から生ずる強烈な安堵感・喜悦感と喜びに満たされる。瞑想で禅定(第一禅定)に入ったわけだが、瞑想で入ったというよりは、遠離(一切とかかわりを断つこと)から自然に生じてくる喜びで禅定に達したという感じ。欲や不善から離れ、心の底からホーッとする感じのとても強いもの。光に包まれるという感覚はない。楽と喜に満たされている。これとは逆に光に包まれる感覚の強い時もあるが、(その時は喜悦感を感じていないので)面白くない。
このホーッとする心の安堵感が極限まで達した時が解脱(涅槃)の状態といってよいと個人的には感じている。本当に心が安らぎを覚え、何があっても、まったく感情が出てこない、怒りも出てこない状態にまで達するためには、無常をきっちり体験しなければならないとスマナサーラ長老は言っている。
j-theravada.net

揺るぎのない安堵感がずーっと続いていく。何が起きても心は安らいでいる。すべては無常であるとはっきり体験しているからである。煩悩で燃えている火が消えてしまった状態。火種が一切なくなってしまった状態。それとは逆に凡夫の心は燃え盛っている。釈尊は言っていた。「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と。
これ以上の境地はない。これが涅槃である。

2019.4.17(水)追記  どういう境地になるのかを記しておきます。(以下引用)

”Q: 悟った人というのは、何かを期待したり、希望したりすることはないのですか。

A: というよりも、真理を知ると、期待や希望など成り立たなくなるのです。期待や希望は、「自分」という自我があるからつくるものでしょう。自我などはもともとないのだから、本当は、期待希望というのは成り立たないはずなのです。悟った人は、ものごとは因果法則に則って流れているだけのことだとわかるのです。

 手を叩いたら音が出る。石が当たったらガラスが割れる。そのように、Aという原因からは、Bという決まった結果が現れる。それが法則です。普通の人は、この単純な事実がわからないのです。そこで、「お金持ちになりたい、うちの子は天才になってほしい」など、ありとあらゆる希望や期待をするのです。そうすると必ず悩む羽目になります。そういう期待や希望というのは、はずれることに決まっているのです。
はずれない期待や希望をしたければ、できます。例えば「今日は木曜だから明日は金曜になりますように」とか「明日も太陽は昇ってほしい」とかね。そういう希望をするならば、決して悩む羽目にはなりません。「明日も太陽が昇りますように」と期待して困っている人はいません。けれども人は「なぜうちの子は天才に生まれなかったのか」と悩む。それで人生は苦悩に満たされるのです。悩む人々は考えすぎなのです。起こるべきことが起きるだけなのだから、本当は何も考える必要はないのです。悟った人はそのことを知っているので、考えたり悩んだりすることは、ひとかけらもないのです。

 皆、太陽が東から昇って西に沈むことについては徹底した安全な気持ちでいるのではないですか? 神様でさえ、それを変えることはできないのです。それくらい確実なのです。だからそれについて我々は、すごい安定感をもっていて、楽にいるのです。なぜならばそれは法則だからです。

 真理を得た人は、常にそういう安定した状態なのです。智慧で見ると、一切のものごとがありのままに見えるのです。その人は、我々が「太陽が東から昇ること」については全く悩まないように、どんなことに関しても悩んだり考えたりすることはありません。お釈迦さまは、悟られてすぐに自分の喜びを表して「ものごとはありのままに現れてくる」という偈を唱えられました。智慧で見ると、一切のものごとはありのままに見えてきます。すべての疑が消えてしまうのです。因縁によって、ものごとは一時的に現れて消えていくだけだとわかるのです。
(「ブッダ智慧で答えます」(Q&A)→【95】真理を知ると安心するより)

「修行に励むバラモンに、現象があらわになる。そのとき、現象は原因により生じるものだと知る。一切の疑いが消え去る。    
修行に励むバラモンに、現象があらわになる。そのとき、現象の原因は滅するものだと 知る。一切の疑いが消え去る。    
修行に励むバラモンに、現象があらわになる。そのとき、魔の軍勢を打ち破り、太陽の ごとく、空に輝く」

アルボムッレ・スマナサーラ. 日本人が知らないブッダの話 ― お釈迦さまの生涯の意外な真相 (Kindle の位置No.1199-1203). Evolving. Kindle 版.より」

一、現象は無常である。(諸行無常)→「生があるから、滅がある」
二、現象は苦である。(一切皆苦)→「得るから、失う」
三、現象は変化する。(諸法無我)→「変わるから、現象としてあらわれる」

「(無常の見方 「聖なる真理」と「私」の幸福 お釈迦さまが教えたこと1 スマナサーラ)」より”


2017.9.6(水) それにしても、瞑想はトライアンドエラーとはよく言ったもので、眠気と妄想の遮断にある程度成功している今でさえ、背中をビシッとまっすぐにしていても、眠気に襲われるときは襲われるし、入定自在といっても、そんなに簡単に毎回禅定に入れるわけではないので、失敗して失敗して失敗して、100回くらい失敗してようやく成功するくらいの感じである。しかも座る瞑想ばかりだし…。なかなか好き勝手に禅定には入れないし、禅定の領域を伸ばすのも容易ではない。こんなことで、生きているうちに解脱できるんだろうか?もう53歳だし。


2017.9.22(金) すべての鍵は遠離(おんり=社会から離れていること)ではないかと思っている。私が初めて第三禅定に達し、身体が白い光に包まれ、強烈な喜と楽と喜悦感に満たされて、一昼夜その状態を味わい続けた時は、仕事に就いていなかったし、今でも母親の介護の傍ら(介護していた父は昨年亡くなったので)一日二度(昼・夜)座る瞑想をしている。第一禅定は遠離から生ずる(五戒を守り不善から離れていることは絶対必要)。
先だって亡くなられた鈴木一生さんが、ヴィパッサナーから、アーナパーナにかえて、結果を出し始めていたらしいので私も氏の動向を見守っていたのだが、逝去されて残念である。私の場合は「膨らみ・縮み」でもなく、アーナパーナのニミッタでもない。ひたすら呼吸の出入りに集中して「入息(にっそく)・出息(しゅっそく)」とラべリングし、ラベリングに引きずられるように呼吸をしてしまうようになるとラベリングそのものが邪魔になるので、ラベリングしないでひたすら呼吸のみを見続ける瞑想方法をとっている。この時も客観視と落ち着きが極めて大事で、瞑想している自分の姿を一歩離れたところから眺めている感じで自分を見ていると冷静になって、何が起きているのかよく気づくようになる。そうしてひたすら息を観て絶対的に落ち着いていると、あるところでホーッとする安堵感がこみあげてきて、強烈な喜と楽に包まれてしまう。この喜びは五感では絶対に得られない。
第一禅定に達した時は自分で言うのもなんだが、機嫌がよくて、禅定が解けてもその喜びを思い出しては楽しみ続ける時間が続く。
遠離が必要だというのは、気づきの時も同じで、ついついテレビを見て食事をして寝ている自分の人生を厭う(嫌う)ことによって、「何をしているんだ、俺は?」ということになって(日常の在家生活から遠く離れることを希求して)、有吉の正直散歩の「歩いてく、歩いてく、歩いてく」にとって代わって「気づいてく、気づいてく、気づいてく〜」という状態になって自分の行動を逐一客観視するようになるとうまくいく(サティとサンパジャーナ)。
呆れるくらい暇で世捨て人のようにならなければ、禅定も気づきも難しいかもしれない。日本のお坊さんは酒は飲むし、妻帯するし、仕事に明け暮れているから、禅定に達する坊さんは一人もいないかもしれない(俗世間と交わっていると遠離が生じない。遠離がないと第一禅定には達しない。第一禅定に達しなければ第二禅定には達しない。第三禅定以下同じ)。禅定に達することができない人が大多数なのは、遠離がないからである。でも禅定なしでもヴィパッサナーで阿羅漢まで行けるのであれば、問題ないのであるが…。