馬越康彦の日記

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非想非非想処定に入る(想受滅とか滅尽定ではなかった)

9月16日以来、想があるとも想がないともつかぬ、もはや想が何も起きない状態に入った。当初は受=ヴェーダナーも働いてないこと、心が完全に働きを止めて究極の楽に入っていることから想受滅、つまり滅尽定に入っているのだと思っていたが、滅尽定の場合、心も身体も完全に働きを停止するため、「自分は何日間禅定に入っている。その何日間が過ぎたら出定しよう」とあらかじめ決めておかねば、出定できないのに対し、自分の禅定は30分とか1時間で出定するし、呼吸していることや心臓が動いていることが自分でもわかるので、これは滅尽定ではないなと思い、念のためテーラワーダ仏教協会に問い合わせたところ、ヤサ長老の回答にはっきりと非想非非想処定と想受滅の違いが説明されていて、ああ自分のは非想非非想処定なのだと合点がいった。

 

それにしても楽である。こころがもうあるともないともつかぬ状態故に、浮いたり沈んだりといった波形をとる感情の荒い動きがまったく消え去り、ただまっすぐに直線状にこころが動く状態である。こころがあるともないともつかぬ(判断できない)状態。

 

まだ完璧に人格を完成していないから想受滅は私には早いようだ。アビダルマでは阿羅漢果と不還果の一部の人にはできるらしいが、藤本晃先生の「悟りの階梯」では阿羅漢果にしか許されていないと書かれている。釈尊が悟りを開かれた後入っていた禅定が想受滅である。呼吸も心臓の動きもきっちり止まるようである。釈尊はその状態に一週間入っておられた。

 

釈尊は非想非非想処定をマスターされた後、「これは究極の楽ではない。せいぜい梵天界に行くだけのものだ」と見抜き、すぐにウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとを離れたが、悟りの完成は「想があるともないともつかぬ」という状態のさらに先にあるということだ。それまであった色界の四つの禅定と無色界の四つの禅定に、「想受滅」を加えたのは釈尊である。阿羅漢はこの想受滅の楽を愉しんでいたようだ。何も感じない。心も知る働きを止めてまったく動かないというのは究極の楽なのである。ものを得ることから楽しみを感じている人には到底理解しがたいかもしれない。

 

仏教は必ずしも歩く瞑想や座る瞑想がすべてではない。自分に欲や怒りがあるかは自分ですぐに分かる。欲や怒りが起きたら「ああ、駄目だ。どれだけやっても駄目なんだろう」と落ち込むのではなく、「自分にはまだまだこころを清らかにする余地がある。気づかせてくれてありがとう」と感謝の気持ちをもって、発奮してほしい。こころを気を付けて観察してほしい。

 

非想非非想処定は解脱を目指す修行者にとっては余計な禅定かもしれないが(色界第四禅からヴィパッサナーで解脱できるので無色界等至は要らないと言えるから)、それでもこころを清らかにしようという気持ちは智慧の完成に必ずつながるはずである。

 

私的にはこのあとこころを更に清浄させて、過去世を見てみたい気はするが、馬鹿なことをやって泣く泣く死んでいった無始なる輪廻を限りなく見ても、今更という気がする。あまりその気にはならないのである。