馬越康彦の日記

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どうすれば預流果に到達できるか?

預流果の悟りは哲学で突破できる。これが世界最高の哲学ですよと堂々と公表できるところまで来れば、たとえ仏道を知らなくても最初の悟り(預流果)には到達できます。
預流果に到達すると、瞑想する習慣がなくても、サマーディ(禅定)に達します。それはある時やってくる。光がモクモクと雲のように湧き出して体を白く包み込み、これ以上ない幸福感(世間一般でいうところの多幸感)で頭から手足の先、髪の毛の先など体の隅々まで充たされきって、幸せで幸せでどうしようもなくなる。光が頭の中で渦を巻き、幸せが一瞬一瞬エスカレートしていく。最初に光に包まれた時が一番強烈で、混じりけのない純度99.99%の幸福に丸一日どっぷり浸かることができる。この状態が何かというと、これが第二禅定である。
その先は第四禅定(私はいますという感じだけがあって、幸福感も喜悦感も第二禅定より抑えられるが、統一感で心が充たされている状態)まですんなり進む。
「私はいます」という感覚だけになったら、「私はいません」(無我)という状態にも到達できる。「ワンネス」という状態にもなることができ、自分が完全になくなる感じに30分ほど(私の場合は30分)入ることができる。
哲学はやっておいて損はない。これ以上ないというところまで達しておけば、預流果の悟りが得られるからである。しかし哲学者、ことに西洋の哲学者であるニーチェやキルケーゴールやカントやヘーゲルあるいはウィトゲンシュタインらが、最高の哲学を説き、預流果に達し、光に包まれ禅定に入ったという記録はない。
ニーチェなどは中道をバカにしている発言もある。どの著書か記憶に定かではないが、「すべてのものから等距離に離れているからといって、それがなんだというのだ」という趣旨のアフォリズムが残っている。これくらいの哲学者になれば、光に包まれ禅定に達してもおかしくないのだが、ニーチェは発狂して生涯を終えてしまう。哲学だけで最初の悟りに至れるのに、ヘーゲルニーチェも預流果に達したという記録はない(ヘーゲルは確かコレラで命を落とす)。
私が分かったのは、西洋の哲学はなるほど、生きる上で究極の人間の在り方にまで踏み込むが(たとえば、「ツァラトゥストラかく語りき」)、生きる上での実践(八正道や瞑想)にまで踏み込めないために、西洋哲学を極めても、天才扱いはされるが、聖者にまではなれない。聖者の百人が百人すべてがそうではないにせよ、哲学は初歩の段階(といっても自分は50歳までかかっているが)でマスターし、その後の人生は瞑想修行で第二から第四の悟りに到達しないと、短い人生ではタイムオーバーとなってしまい、解脱できないのではあるまいか。
人生は短いから、哲学を50年やっている暇はないという人のために、ヴィバッサナー瞑想があるような気がする。いずれにせよ、これが禅定だというところまで来ておかないと、かりに人間の姿をとっているのが輪廻転生の中の一時的な姿であるとするならば、輪廻の輪を破り解脱する最大の足がかりを、築けないうちに転生していってしまうことになる。それは危険な生き方だとは言えないだろうか?
金メダリストになるよりも、ノーベル賞受賞者になるよりも、果ては宇宙一の天才になるよりも、預流果に達するほうが遥かに難しくて価値がある。ブッダが今の時代を生きていたら、きっとそう言うに違いない。
ちなみにニーチェがどれだけブッダにあこがれていたかも、ヴァーグナーの妻のコジマ・ヴァーグナー宛の手紙に遺っている。

私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王カエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより
”(wikipediaの「フリードリヒ・ニーチェ」より引用)


これほどまでブッダに憧れていても、肝心の心は出家修行者のそれとは違って、遠離(おんり)を楽しまなかったようである。第一禅定に入るためには、心が遠離から生じる喜びを感じることが必要だからである。


〝最初の悟りは「知識」に関係が深いのです。これは煩悩とはそれほど関係がないのです。ですから最初の段階を悟った人は、人類にはたぐいまれな哲学者なのです。ものが見える。ものが見えて哲学者ではあるけれども、人間としての煩悩や、やりたいことはいろいろあるかもしれません。煩悩が消えていくのは、二番目三番目四番目の悟りで、一番目の悟りではいくらかは消えますが、あまり消えません。一番目の悟りで消えるのは、無明に関する煩悩の一部です。智慧が現れますから。
サーリプッタ尊者のとてもいいところは、どんなに頭の悪い人が来ても、いろいろ話してあげて、悟りの世界を体験させちゃうんです。いちばんむずかしいのは、最初に、悟ることなんです。そこを悟ってしまえば、ほかのものは冥想が進み次第、進んでいくものでむずかしいことではないのです。最初の悟りを体験してしまえば、確実に最終的なレベルまで悟ることができるのです。サーリプッタ尊者はそれがかなり上手だったのです。”(根本仏教講義 頼りになるのは覚者だけより抜粋)

*ものが見えるというのは、ヴィパッサナー瞑想で名色分離智が生じて、ナーマとルーパの関係がありありと見えるということを意味する。たぐいまれな哲学者というのは世間一般の哲学に慣れ親しんだ(習得した)という意味ではなく、名色分離智という智慧が生じ、それに続いてナーマとルーパの因果関係がわかる(縁摂受智が生じる)という意味である。名色分離智が生じた人はたぐいまれな哲学者なのである。それは、ほとんど生じない。


頼りになるのは覚者だけ | 日本テーラワーダ仏教協会






この智慧の第一人者であるサーリプッタ尊者は、抜群の智慧がありました。
サーリプッタ尊者がちょっとしゃべってみたら、誰だって預流果になってしまうんです。ものすごい能力なんです。だからお釈迦様がほかの比丘たちに、「このサーリプッタ尊者が人類の母親だと思ってください。その人に会ったら、次から次へと聖者が生まれます。モクレン尊者は父親だと思ってください。育てますよ、それから阿羅漢になるまで。いろいろ必要な瞑想の方法とか、必要なデータを持ってきて、育ててあげます。産むのは、サーリプッタ尊者です」。(サーリプッタ尊者の説法|カッサパ如来(2) - ブッダ ラボ - Buddha Laboratoryより)

哲学をしていると、特に自分が孤高の高みにあると確信すると、いずれニーチェのように発狂してしまうのではないかと自分の精神を危惧する時もきます。でも大丈夫です。第一の悟り(預流果の悟り)に達しますから安心してください。預流果に達すると、仏教と疎遠でも、必ず初期(原始)仏教と出会います。波羅蜜も関係しているかもしれません。仏教と出会い、酒を飲む生活を(つまり五戒を破っている状態を)送っていても大丈夫です。第一、第二禅定に自然に達します。すると第四禅定までは順調に進みます。ここで布施をするなり、何か徳行を高める生活を送っていると、人間の味わえない幸福感とともに目が覚めます。酒が切れてはっきり目覚めます。誰か同じように目覚めている人はいないかと探しにかかりますが、みんな何かをしていて(働く、子育てをする、女遊びをする、酒を飲んでいる、名誉を求めている、スポーツをしているなどなどで)、誰も目覚めていません。でも私たちは、ここで目覚めた人となります。その先はまだ経験していないのでわかりません。目覚めていることは手段ではなく、目的だと語る方もいらっしゃいます。私も何をすればいいのか正直わかりません。ただ幸せです。
過去を妄想するでもなく、これから起きる未来を妄想するでもなく、瞬間、瞬間を生きているだけです。


何をすればいいのかわからないなどと言ってしまいましたが、「ブッダの感興の言葉」にすべてなすべきことが書かれているではありませんか!以下第15章 念(おも)いをおちつけて より抜粋
目ざめていて、念いを落ち着け、正気でいて、心を統一安定させ、喜んで、心もちが明らかに澄んでいる者は、適当な時々に正しい教えを熟考して、生れと老い、ならびに憂いをのり超えよ。
それゆえにつねに目ざめておれ。念いを落ち着けて、怠ることなく、勇を鼓して、生れと老いという束縛の絆をすてて、この世にありながら苦しみを終滅させる。
目ざめている者どもはわがことばを聞け。眠っている者どもは、めざめよ。眠っている者どもよりは目ざめている者がすぐれている。目ざめている者には、恐れが無いからである。
ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、不死を得ようとしているならば、その人のもろもろの汚れは消え失せる。



もっと引用しますが、ここには自分が完成していく喜びがあります。第一の悟りをひらいて、禅定にも達し、人間が味わい得ない喜びを味わい、さらに引き続いて目ざめていることを知り(覚醒し)、不死(輪廻の輪を乗り越え、もう生まれと老いと死を二度と経験しないこと)へと至る無上の喜びがあります。自分が人を超えたものへと着々と進んでいくという並々ならぬ喜びがあるのです。欲求から遠く離れ、将来に対するなんらの期待を抱かぬ事、こうしたことは暗いことではなくて、至福の喜びへと我々を導くのです。ダンマパダやスッタニパータが道しるべです。自分が聖者の道へ入るのはこれほどまでにうれしいことなのです。
これでブッダがなぜ「目覚めた人」であり「幸せな人」であるのか、身をもって知りました。

「預流果」をキーワードにここに来ている人は、預流果に達した人についての尊敬すべき師、つまりスマナサーラ長老の巻頭法話にすべて書かれていることを心に留め置かれたし。全部書いてあります。人間を超越した楽しみについてもきちんと書いてあります。以下にリンクを貼りますのでよく読んで、自分の心の状態を確かめてください。間違いなく判断できます。仏教に嘘はありません。

輪廻は激流です | 日本テーラワーダ仏教協会

簡単に見える超越した世界 | 日本テーラワーダ仏教協会


あるいは旧態依然としていますが、
ブッダの脱獄計画 | 日本テーラワーダ仏教協会


です。何の不安もないではありませんか。これが理解できれば預流果です。聖者の流れに預かっています。古い歌にありましたが、「ここまできたら、SUCCESS(サクセス)〜」ってやつです。これが最後の生存であり、これが最後の肉体であることがわかります。衆生がすべて救われるのかとかすべて悟りに至るのかなどという問題はどうでもいいことなのです。きっとそのように思われます。それほどこの喜びは大きくて深いのです。すべての哲学的な問題が、なんか青臭いことを観念的に考えていた過去物語に感じられます。そういうことを考えている人はまだまだなのです。自分が輪廻から脱出する喜びに比べるとすべてがあほらしく思えます。Imagine there's no heaven〜  なんてことをImagineしません。目が覚めているからなのです。とても優れた歌なのはわかっていますけど、Imagine はしませんよ。よく見えるからです。
ここまで来ると本当によくわかるのですが、自分を輪廻の激流から救い出すのは自分自身の仕事であって、もし自分が激流を超えて彼岸に至れば、他の人にも自らを手本に激流を渡らせるのが正論で、何かにお祈りして衆生を救うものではない(また衆生はそうした形では救われない)ことが痛いほどよくわかります。他人を見捨てるなんてとんでもない!初期仏教のお坊さんはあちこちで説法して、ちゃんと皆さんを預流果の悟りに導かれようとしているではありませんか。菩薩への信仰はありますよ。私も観自在菩薩様に何度も救われました。でも輪廻の激流を超えるのは自分の力、ブッダの残した道を行くしかないんです。
観自在菩薩については、スマナサーラ長老のこんな言葉もあります。
〝観自在菩薩(観世在菩薩、観音菩薩)は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代にはぜんぜん出てこない、あとから作られたキャラクターです。そういう人が実在したわけではありません。観音様の特徴は、さまざまな現世利益をうたっていることです。おそらくインドか中央アジアで崇拝されていた神の一人が、仏教にスカウトされて仏教徒を守る超人的な菩薩となったのでしょう。私の推測ですが、スリランカでは仏歯寺の周囲に祭られている「ナータ」という神が、観音菩薩の原型ではないのかと思っています。”
wikipediaの、〝偽経『観世音菩薩往生浄土本縁経』によると、過去世において長邦(ちょうな)というバラモンの子・早離(そうり)であったとされる。彼には速離(そくり)という兄弟がおり、のちの勢至菩薩だという。早離と速離は騙されて無人島に捨てられ、餓死したが、早離は餓死する寸前に「生まれ変わったら自分たちのように苦しんでいる人たちを救いたい」と誓願を立てたため、観音菩薩になったという。なお、父の長邦は未来に釈迦として生まれ変わった。”とあるので、我が家の観自在菩薩像をずっと大事にしてきたのだが、大事にして問題になることはなさそうである。現に救われたのは事実だし。ただ、悟りや涅槃・解脱とは関係ない。ありがたいんだけど、般若心経に対しては、スマナサーラ長老は否定的である。

私の場合は哲学から入りましたが、正しい悟り方はブッダ自身が示されているのです。何かに救ってもらおうとしていたら天界へも行けなさそうです。個人的にはスマナサーラ長老の説法で十分だと思います。かの師が存命中に駆け込まれたほうがいいかと思いますが、個人的には会場が混むのは嫌です(私はネットで長老の説法を読む一方で、生で聴いたことはありませんが)。



Suññāgāram pavitthassa空閑処に入って、santacittassa bhikkhuno心穏やかにした比丘が、sammā dhammam vipassato正しく現象を観察する時、amānusī rati hoti人間のレベルを超えた喜びが生まれる。激流に流されていた人が、流木をつかまえただけではなく、状況を把握しながら手足を巧みに動かして、岸まで進むのです。その人のこころは喜びに溢れるのです。
仏道は直ちに結果をもたらす

普通の人々は、仏道は先が見えないほどの長い道ではないかと思っているのです。解脱に達することはできそうもないと、実践の仕方を知らなかった昔の仏教徒たちは実践を止めて、拝んだり祈ったり頼ったりする大乗仏教を作ったのです。自分で努力して助かるのではなく、助けてもらうことに変えたのです。この変質は、ブッダの教えを正しく理解できなかったことに原因があるのです。初心者はまずブッダの教えを理解しなくてはいけないのです。自分とは何か(五蘊)、生きるとは何か(眼耳鼻舌身意に色声香味触法がふれて起こる認識の流れ)ということを理解しなくてはいけないのです。これぐらいの理解にも、智慧と言います。それから、仏道実践する意欲が起きます。それで実践してみます。そうすると、生滅智が現れます。人間界を超えた喜びと安心感をおぼえています。ここは仏道の終着点ではないのです。生滅智が現れたら、本格的な仏道(涅槃に達する一方通行の道)に入ったことになります。それから忽ち、解脱に達します。法の特色の中にakāliko(アカーリコー)という言葉があります。時間がかからない、という意味です。(時代おくれには絶対ならない、という意味もあります。)それから、sanditthika(サンディッティカ)目の前で結果が現れる、という意味の言葉もあります。すぐさま解脱に達する教えである、という意味です。 (ここまでパティパダー巻頭法話集229より引用)


スマナサーラ長老の話がよくわかる。経験していた「無我」の論理的な仕組み、「ある」、「ない」しか私たちは認識しないこと、本当に「ある」のか「ない」のかはわからないこと、ただ、条件があれば、「ある」ものだと、「いる」はずだと思っている「わたし」がそのように認識しているだけのことだとよくわかった。因果関係が実によくわかる説法である。これは絶対読んだほうがいいので、リンクを貼ります。


無常と覚り - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory



なんだ、そういうことだったのか。ブッダの説く「因果関係・因縁」がようやくわかった。

2016年12月12日 生きることは苦であるという苦聖諦(四聖諦の一番初め)を身体で理解する(頭の理解ではない)。親鸞聖人も日蓮聖人も、どの聖人も悟れなかったのである。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」とか何の意味があったのやら不明だ。釈尊の教えとは全く関係がない。ここまでくると、彼らが不思議でしょうがない。どうしてここまでおかしな方向へ仏教が変質してしまったのか?まあ、自分には興味がないが、不思議でならない。自然に禅定に達するし、苦聖諦も体で理解できるというのに、なぜ彼らはあんな苦行をして、おかしな哲学にたどり着いてしまったのか、本当に不思議だ。普通に仏教が伝わって来れば、普通に解脱できたであろうに。こんなおかしな聖人のことを日本史では勉強させられるのでしょう?自分は世界史を選択していてよかった。もう三十数年前の高校時代の話だけど。日本の歴史が教えているのは悟れなかった人の仏教史ですよと言いたくなるが、余計なお世話か?私は生きているうちは全く注目されないだろうから、悟り以外の余計なことにかかわることが一切ない。本当にラッキーだと思っている。聖人なんて名付けられて悟りに達していなかったら恥ずかしくて外も歩けない。釈尊が苦行も断食も悟りには全然関係しないことを立証してくださって本当にありがたい。自分は苦行とは全く縁のない生活を送っている。私は悟ってもこっそり隠れていよう。だんだん私という考えが働かなくなってきているから丁度いい。こっそり解脱しちゃおう。
せっかくスマナサーラ長老の説法に触れる機会のある人が、ヴィバッサナー瞑想からはずれて、日夜SNSに一生懸命になり、もう大乗仏教のことは学ばなくていいのに、また大乗仏教へ引き戻されていく人がいる。人生そんなに時間はないのに、何故?と思ってしまう。自分はテーラワーダ以外には何の興味もない。実際に流れに預かったらもう他のものへ目が向くことは一切ない一本道なのに、スマナサーラ長老に触れていながら、なお大乗仏教を研究しようとする人たち。曰く大乗にもそれなりに意味があったはずだとか。何故大乗を引きずるのか?気の毒に未練があって大乗に惹かれるのかもしれないが、それは疑である。私には疑がないから、私は最初からずっと大乗には惹かれていないんだけどね。まだ信じきれないから捨てられないのでしょう。信じるためには、少なくとも禅定を体験し、預流果に入らないと大乗は捨てられないです。自分で体験しないと何が本当かはわからないからです。これはいかん!ちょっと優れた境地に入ったと思って、悪魔の第八の軍隊に負けてしまっている。これでは勇者になれない。おごり高ぶっている。要注意!
悪魔の第八の軍隊とは「みせかけと強情」で「少しばかりのすぐれた境地を経験すると、慢心や偽善、強情などが生じること」を言います。
疑いといっても、自分できちんと疑問をもってちゃんと調べたり原因をさがしたりすることは、仏教ではとても大事なことだとされています。とことん調べてから、きちんと「これは信じない」「これはわからない」という結論を出すことは、正しい態度であって、心を育てる善い行いです。



2017.9.8(金)  預流果に達した時も、禅定に入った時も、心の底からホーッとする強烈な安堵感によって幸せでならないものだ。


2018.10.24(水) 正確に預流果に到達するためにも、ヴィパッサナー瞑想をして、最初の智慧である名色分離智が生じるまで、自己観察を続けねばならない。瞑想で自分が消える(身体が消える)ことを経験すると、それほど遠くない時期に、名色分離智が生じ、さらに観察を続けると、ナーマとルーパの原因と結果が分かる(縁摂受智)。
この時点で小預流果(者)になり、悪趣(地獄・餓鬼・畜生)へ落ちることがなくなる。この智慧が生じたら(縁摂受智が生じたら)、「自分が死ぬことは間違いない。自分も他の生命も死ぬのだ」という死隨念を徹底して行うと生滅智が生じる。
生滅・生滅する現象の“滅”に心が傾いたら、壊滅智が生じる。そこから怖畏智まではすぐである。怖畏智までくると、瞑想の状態がよければ(戒・定・慧の三つがバランスよく保たれ、心が清浄で力が強ければ)、厭離智や脱欲智や省察智などの智慧がまたたくまに生じ、行捨智まで一回の瞑想で来てしまうことが可能となる。
行捨智から道心まではすべての要素が十分に力強ければ、達せられるが、これは人によっては何回もブランコをこがないと、道心には行きつかない。
つまり、また生滅の観察から一段階ずつ登らないといけない。
道心が生じればそのまま果心が生じ、それで最初の悟り(預流果)が得られる。
預流果になって有身見・疑・戒禁取が消え、最大で七回人間界と天界を行ったり来たりする間に涅槃に入る。

預流果までくれば、一来果と不還果は視野に入る。在家で来られる最大の悟りが不還果である。
預流果に入ったといって喜んでいる場合ではない。いつ死ぬか分からないからである(預流果でもたしかに満足できるのだが…)。


「預流果の悟りは哲学で突破できる」で始まった日記ですが、結局ヴィパッサナー瞑想を通して、預流果に至る道の解説となってしまいました。
一日一時間の瞑想で行捨智まで来るのに2年10ヶ月かかっています。最初のころは「こっくり、こっくり」と居眠りばかりしていたのですから、きちんと瞑想するようになったのはごく最近です。昨年12月に身体が消える経験をして、今年(2018年)の1月に名色分離智が生じてからも、
縁摂受智まで時間がかかりましたし、一番厄介だったのは生滅智がいっこうに生じてこないことでした。生滅智が生じてこない人のために、スマナサーラ長老はこんなことも話しています(長老の話は壊滅智かと思われますが…)。

ヴィパッサナー瞑想が進むと、智慧が現れるための宿題として、「一切現象の滅」を観察することになり ます。修行者がこの宿題をうまく解けず、悟りに達しないままで瞑想を終了するケースは よくあります。死随念の経験がある人なら、この宿題に合格します。”

アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第七巻・第八巻[合冊版] (Kindle の位置No.1731-1734). samgha. Kindle 版.


*生滅智が生じるためには死随念を実践していなければいけない。生滅智が生じれば悟りの道への一方通行で高速道路に入ることになる(これはスマナサーラ長老の話をまとめたものです)。



“実際に瞑想に挑戦する人々はまれなのです。そのなかでも、成功する人はさらに少ない のです。瞑想に興味がある人々のなかでも、悟りに解脱に興味を持つ人々は、さらに少ないのです。その中では、成功率は高いですが、皆、悟りに達するわけではないのです。”

アルボムッレ・スマナサーラ. ブッダの実践心理学〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析 アビダンマ講義シリーズ (Kindle の位置No.1667-1670). samgha. Kindle 版.より)


道果(悟り)に達するのはエベレストの登山のようなものである。日頃から五戒を守って基礎的な体力をつけておかないといけない。ベースキャンプを張ったら(生滅智に到達したら)、あとは心が清浄で力強ければ頂上までは一回のアタックで行ける。そのかわり失敗すると、またベースキャンプまで戻って撤収である。もう一度生滅智から(ベースキャンプから)アタックし直さなければならない。