馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

輪廻転生(無常・無我の体験は何度確認できる?)

1. ある人がテレビをウォッチしている時、ビデオテープをコマ送り再生しているわけでもないのに、画面が止まり、また動き出し、また止まり、また動き出したとしよう(最近のテレビ放送では編集の失敗でよく止まったり、そのあとで動き出すことがちょくちょくある。特にTBSの「ひるおび」。だからこれらを見て、「あ、これが事物の生滅か」と納得してはいけない)。
その同じ人が一年後に、本箱に収まっている薬箱を見ていると、箱の側方が滅す(消える)、生じる(現れる)を何度か繰り返すのを目の当たりにした。
その同じ人が、ここ2年の間に無我を3度体験したとしよう。
この人がこの人生でもうこれ以上無常も無我も体験しないまま、何度か転生して、再び人間に生まれたとする(理屈の上では一来者は天界から次に人間界に生まれるか、そのまま次の転生が即人間界であるかなのだが)。
彼が次に無常を体験したとき、自分の無常の体験は3度目だとわかるのであろうか?
彼が次に無我を体験したとき、自分の無我の体験は4度目だとわかるのであろうか?
というのもこの人は前世まで凡夫で、この生で初めて無常を2度、無我を3度体験しているのであるが、どう数え間違っているのか両者の数が同じではないのだ。
そこで無我を体験したのが2度だったとしよう(彼は1度カウントミスをしている)。
そして一来果としてこの欲界に戻ってきた彼は、まだ宿命通を得ていない。過去世で自分が2度無常・無我を体験していることを知らぬまま、一来果として初めて無常・無我を経験するこの人は、自分の輪廻転生の中で、これが通算3度目の無常・無我の体験だとどうやってわかるのだろう?
彼はまた1からカウントし始めてしまわないだろうか?
宿命通を得ていないから、彼には分らないのだろうか?それとも自然に不還果となり、梵天に生まれ、般涅槃(はつねはん)するのだろうか?
これがわからないから生きているうちに阿羅漢果まで到達せねばと焦るのだろうか?


こんな素朴な疑問に、藤本晃氏の『悟りの階梯』はこう答えています。


預流果と同じく、一来果も、不還果も阿羅漢果も、悟りはみんな「不退転」です。一度悟った結果は、決して消えません。無常という真実を「体験」してしまって、その分の煩悩が根こそぎ滅していますから、その煩悩はもう二度と生まれませんし、「体験」してしまった真実は「体験」ですから取り消せないのです。後戻りはありません。悟りの段階が上がれば上がるほど、阿羅漢果が前倒しされて、速くゴールに着くのです。


2. 六欲天梵天がどういう状況にあるのかを知ることはできる。
私は瞑想なしにたどり着いたが、多くの人は瞑想をして禅定に達することで、天界(欲界天)や梵天の精神・肉体状態を体験することができる。
A. 天界の幸福感は敵・味方の区別なく働く。そんな区別などしている場合ではないのだ。敵さえも幸せになってしまえというほど、幸福感が体からあふれ出し、光に包まれて、その光が渦を巻いて、幸せがエスカレートしていくような感じである。人間の幸福を「水滴」とするなら天界の幸福は「大海」に譬えられることからある程度推察できるが、禅定に達しないと、本当のあふれ出すほどの幸せの実感は体験できない。あふれるのだ、本当に。
B. 梵天の世界になると幸福感はぐっと抑えられ、私はいます、私はあるという感覚だけがあって、時間の経過がわからないほど時間は膨大になり(時の経過に無執着になり)、暑くも寒くもなく、空腹になることも痛みを感じることも一切なくなる。心は桁外れに清らかで、ひたすら喜悦感に浸り続けている存在なのだ。
C. 涅槃はたとえようがない。梵天をさらに超えた究極の境地ゆえ、阿羅漢になって滅尽定に入らないとさっぱり実感できない代物だ。これは推定しようもない究極の楽な境地なのだろう。宇宙を動かす一切の法則(摂理)から自由な境地、それは今の私にはまだわからないし、譬えることは無理である。

D. ちなみに釈尊は初禅から非想非非想処定にまで順番に入っていき、非想非非想処定から初禅まで順を追ってもどり、また初禅から今度は第四禅定まで順番に入った後で般涅槃(はつねはん)されている。私のように瞑想もしないで、たまたま第三禅定や第四禅定に入るのではだめで、コントロールしてどの禅定にも自由に順を追って入れるようにしなければできない所業なのである。

ここからは引用

ある日、ジャイナ教の行者たちがお釈迦様をこのように批判したのです。

'Na kho, âvuso gotama, sukhena sukham
adhigantabbam, dukkhena kho sukham
adhigantabbam; sukhena câvuso gotama,
sukham adhigantabbam abhavissa, râjâ
mâgadho seniyo bimbisâro sukham
adhigaccheyya, râjâ mâgadho seniyo bimbisâro
sukhavihâritaro âyasmatâ gotamenâ' ti.(M-14)
 「ゴータマさん、楽から楽に達することはできません。もし楽から楽に達することができるというならば、マガダ国のセーニヤ・ビンビサーラ王様がゴータマさんよりも優れた幸福に達していることになります。」

 このように批判を受けたのは、お釈迦様がジャイナ教の苦行を激しく批判したからです。彼らは究極の楽に達するために、極限に苦行しなくてはいけないのだと思っていたのです。彼らの開祖が、「過去の業でいま苦しんでいるのだ。であるならば、いま苦行をして過去の業を燃やしましょう。新しい業を作らないことにしましょう。それで業が消えるのです。業がなくなったら、苦がないのです。苦がないならば、究極の楽なのです」と説かれていたのです。
お釈迦様は、「君たちは過去にいたことを知っているのか。過去で悪業をしたことを知っているのか。過去の悪業の量はどれくらいなのかと知っているのか。いまの苦行で、どれくらい悪業が燃えて、どれぐらい悪業が残っているのかと知っているのか」と、質問されたところで、すべての質問に「知りません」という答えが返ってきたのです。
お釈迦様は結論を出す。「それなら、皆と同じく楽に生きられるのに、あなた方はむやみに、意図的に、苦しんでいるのです。まさかあなた方は、過去世で殺人者・強盗・強姦魔だったのではないか」と。お釈迦様がユーモアで、彼らの修行が間違っていると説かれたところです。非難されたわけではないのです。それでもその言葉が、ジャイナの行者たちの気に障ったのです。

 ジャイナ行者たちの批判に対して、お釈迦様は答えをする。
あなた方は調べることもしないで、無責任に、根拠のない言葉で、私を批判しようとします。しかし、私はさらにあなた方に質問します。マガダ国王に七日間、身体を停止したままで、言葉を発することもなく、昼も夜も究極の幸福を感じていることはできますか?

 できません、という返事がきます。
それでお釈迦様は、「では六日間は? 五日間は? 四日間は? 三日間は? 二日間は? 一日だったら?」と日にちを減じていきました。また、できません、という答えが返ってくる。
お釈迦様は、「自分には七日間も、昼も夜も身体を完全停止したままで、言葉の働きも停止して、究極の幸福を感じていることはできるのだ」と説くのです。

 最後に、ジャイナ行者たちが、「究極な楽を感じているのはお釈迦様である」と、認めざるを得なかったのです。

(Evam sante âyasmâva gotamo sukhavihâritaro raññâ mâgadhena seniyena bimbisârenâ.
 それなら、ゴータマさんはビンビサーラ国王よりは楽をしていることになります。)


(引用元)  苦労しないで楽に達する道 | 日本テーラワーダ仏教協会 

 

3. 無我を私は3度経験したことがあるので、ここで少々ある不安に処方箋をおくりたい。輪廻転生を否定しようとする考え方が一部にある。曰く、「輪廻転生といっても仏教は無我を主張するのだから、輪廻転生する主体、すなわち『我』はないという考えに立つと輪廻転生は成り立たない話なのではないか」とか、これに付随する諸々の疑問である。無我を体験した者として言えば、確かに『我』はなくなってしまうのだが、『我』はないと確認する『我』は確かにあるのだから、『我』というのは無くて有るものなのだ。こう言ってしまうと理解不能かもしれないが、現実に無我を体験するとよくわかる。つまり仏教は『無我』を主張し、同時に『輪廻転生』をうったえていても少しも矛盾していないのだ。これは無我を経験すればわかることだ。単純な形式論理学によって『無我』と『輪廻転生』が並び立たないものであると誤認してはいけない。このふたつは互いを排斥しあうものではなく、両方とも立派に並立するものなのだ。無我の問題は輪廻転生だけでなく、自灯明・法灯明のところでもひっかかる。仏教は無我を中核に据えているのだから、自分に頼れ・法に頼れというのは「無いはずの私に頼ること」なので、よくわからないという趣旨の発言に大学教授が適切な答えを探しあぐねているのを見かけるが、我は無くて有るものなのだ。『無我』と『自灯明・法灯明』も何ら矛盾していない。世間がこの問題について騒ぐのは、実際に自分で無我を経験したことがないからだ。僕は仏教学者でもないし、経典を読んだこともないが、経験に立って考えると何ら問題はない。腑に落ちるというやつだ。ヘーゲルの論理学の初歩でも引っかかってしまう場合がある。曰く「物は互いにけん引する限りにおいて反発する」などいい例かもしれない。
なんのこっちゃとなってしまう。頭で考えるな、知れ!っていうか、最終的には納得してもらいたいのだ。「無我」に入ることができた人は、必ず無我となっている自分を確認する「我」を知る。その「我」を信用して「島」として頼りなさい。





諸君は禅定に達する必要もあるし、無我も知らなければいけないんだけど、そのうちわかる時が来る。




無我とか輪廻転生について、スマナサーラ長老は確実に知っている。長老がどれほど確実かというと、第一禅定から第四禅定までの状態をビシッと言い当てているのだから、この人の言うことは間違いない。僕はお金がなくて長老の本をそれほど持っていないのだが、「上座仏教 悟りながら生きる」の中で、長老は第一禅定から第四禅定まで私の経験した通りに書かれている(上掲図書 P256 すべてのできごとには必ず原因がある を参照してください)。私は長老の本は「沙門果経」とこの本の2冊しかもっていないが、どういう状態が悟りの状態かまで見事に解説してあるから一読を薦めたい。長老の話のほとんどはネットで読んでいる。ただで読ませてくれるのだから財布にやさしく良心的だ。