馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

どこまで来ているか?

人生長くて80年〜120年くらい。短い人はもっと早く終わっちゃいます。私はそんなに長生きできそうにないけれど、皆様はどうですか?少しは悟れそうですか?
どこまで来ていますか?


議論によっては真理に到達できない。
研究によっては真理に到達できない。
詩によっては真理に到達できない。
文学によっては真理に到達できない。
考古学によっては真理に到達できない。
歴史学によっては真理に到達できない。
法律によっては真理に到達できない。
哲学だけでは真理に到達できない。(第一の悟りには哲学が必要なのだが・・・。)
瞑想だけでは真理に到達できない。(第二から第四の悟りには瞑想が必要なのだが・・・。)
学問だけでは真理に到達できない。(哲学を始めるための諸学問は必要なのだが・・・。)
清浄行だけでは真理に到達できない。(聖者は清浄行によって自ずと浄まるのだが・・・。)
政治なんかではとてもとても真理に到達できない。(政治によって人は堕落する。修行僧は必ず政治を避ける。政治に参加するなということではなく、政治を生業とするなということ。)
ここに述べたのは、主義主張とか理屈ではなく、また〜する者はダメですという否定や断言でもなく、ただあるがままに、〜していたのではいつまでたっても、真理には到達できませんよという事実です。我だとか私だとかいうものがまだあるんだと考えている人々がいるらしいんですね。それではいつまでたってもダメなんです。我は〜。私は〜。我が一族は〜。I me mine.I me mine.I me mine.それじゃダメなんだって。結局無我に到達できない個体は、自分を島(洲)とする術も知らないんですよ。無我を知って本当の自我が育つのに、無知な人は生まれたそのままに、我はなにそれ、私はなにそれ、我が一族はなにそれ。だからそんなこと知ったことじゃないんだって。私はノーベル賞受賞者だとか、私は大統領だとか、私は総理大臣だとか、私は何々国王だとか。だってそんなもの無常でしょ。いくらその人の名前や写真や映像や骨が残ったってねェ。肝心の心は死んだとたん次の体に転生していくんだから(我を主張したって無意味でしょうに・・・)。


では何が必要か(どうすれば真理に到達できるのでしょうか)?判断の基準はあります。以下に書かれている通りです。


*前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、苦しみの終末を明らかに知った人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(ウダーナヴァルガ)

*熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。(ウダーナヴァルガ)


このレベルに到達して初めて、知ることをすべて知り、なすべきことをすべてなし、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまったといえるのである。
ここに来る道もあります(八正道)。
愚人の生涯はこれとは正反対のものである。まだ見ていない絵があるからと美術館に足を運び、まだ味わっていない味があると、新しいものを買い求めて舌鼓を打ち、まだ聞いていない音楽があると演奏会に足を運び、まだ触ったことのない体があると、異性に触れ、まだ嗅いだことのない香りがあると芳香を嗅ぎ感官をまんべんなく満足させようとして、来る生涯来る生涯とすべて失敗(不満足=苦)のうちに終わる。それはどこまで行っても満たされることのない――到達点を知らない輪廻転生である。こうして彼らは子を育て、嫉妬、憤怒、高慢、焦燥、失望その他ありとあらゆる感情の中を行き来して生涯を閉じる。
まともな人はそんな生涯を送らない。まともな人は感官を制し、すべて対象から送られてくる情報に中立であり、動じない。彼らは全く対象から自由であり、一時として普遍ならざるものに心をとらわれない。この世の中のすべてのものは生成消滅していく。愚人はそれに心を囚われ、聖者はすべてから離れて心を縛られることはない。
愚人の頭の構造は猿と同じである。あの枝からこの枝へと渡り、渡る先々で常住ならざる現象に頭をきょろきょろさせて心を動かす。心は常に感情の渦である。猿はこうして動いていく世界に心を動かす。まともな人はそんな心の持ち方をしない。変わっていくものはどうしても変わっていくものだから執着しない。猿は動いて動いて頭をきょろきょろさせているうちに生涯を終える。次に生まれ変わった先でも同じ一生を送る。物は永遠に動いていくから猿の興味の対象も満たされることなく永遠に動く。だから彼らは永遠に輪廻転生を続ける。心はいつまでたっても知りたい、生きたいという強い欲求で輪廻してしまう。まともな人はこの仕組みに気づく。まともな人は輪廻に厭きる。


それは私だって現代医学ではさっぱりわからない痛み(線維筋痛症)に襲われているのだから、お釈迦様のように言いたいですよ。
〝ときどきお釈迦様が歳を取って体の調子が悪くなったときはハッキリ言っているんですよ。「ものすごく苦しいんだ。体が弱くて痛くて」

いくつか体の病気がありましたからね。腰がすぐ悪くなるし、腸も弱かったし。激しい苦行をしたからね。それから無智な人々に説法もしなくてはいけないし。

「やっと私が楽になるのは、禅定に入っているときだけだ」”(瞑想してみる お釈迦様は解脱後も何故瞑想した より 引用)

お釈迦様は解脱後もなぜ冥想した? - ブッダ ラボ - Buddha Laboratory

でもね、すべての生き物が、生きとし生けるものが同じように苦しんでいるんですよ。
そうしたら、やっぱり「生きとし生けるものは、幸せでありますように」と自然にね、そう瞑想してしまいますよ。