馬越康彦の日記

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究極の清らかさにたどり着く

ここ一か月ほど、夢の中でも完全に悪さをしなくなった。女が出てきても触れようとも思わないし、悪いことをしようという意業が夢の中でも消え去った。ついに起きている時だけではなく、夢の中でも自分をコントロールし、まったく悪いことをしようという気持ちすら消え失せてしまった(湧かなくなった)。完全な清浄行の中に身を置いている日々である。いったい私はどこへ行ってしまうのだろう?
スマナサーラ長老の言葉を引用したい。
〝仏教の神随念は、神を念じることではありません。いたるところに神々が住んでいる、彼らには人間の心がいとも簡単に読み取れる、世間では立派な修行者だと誉められていても、心に汚れが生じたら、自分が偽善者であることは神々にばれているのです。ですから、たとえ夢の中でも汚れた概念が心に生まれないように、厳密に注意して生活するのが神随念です。”
気を付けたい言葉である。

愛する者を持たず、執着することなく毎日を過ごす。心は常に何かを探している。この心があちらこちらへ行って悪さをしないように、私は手元にとどめておくだけで精一杯である。瞑想しようとすれば妄想に走る心。この心にリードをつけるので精一杯だ。私はこの悪戯な心を制御してみよう。私の周りにいろいろな人がいるが、心を制御できている人は見たことがない。
歳をとってから上座部仏教に出会った幸せ。マルクス・エンゲルスフォイエルバッハを学び、ヘーゲルデカルト・カント・ニーチェキルケゴールに学び、自分の哲学を完成させたのが、47歳頃。一端の哲学者になり、悟りの第一段階に来た頃だ。瞑想によらずに白い光に包まれ、多幸感を覚えるという色界第三禅定にたどり着いたのが49歳。50歳で梵我一如に到達し、51歳でヴィバッサナー瞑想を始める。52歳で第四禅定に自然に至り、この先はまだわからない。瞑想によらずに禅定にたどり着いたので、何とか瞑想を始めた今日この頃は、瞑想の力で第一禅定から第四禅定まで自由に出入りすることが目標である。自由に禅定に入ることができれば、禅定が解けることを恐れなくて済む。喜悦感に浸りっきりな一生を送ることができる。あの喜悦感は病の痛みをモルヒネなしで乗り越えさせるほど強力で、半日から一日は解けない。禅定が解けたらまた入ればいい。生きたままで梵天になることができる。自分が悟りのどの段階にきているかは、スマナサーラ長老に訊くとよい。


頼りになるのは覚者だけ | 日本テーラワーダ仏教協会



心に関しては人はまるで関心を寄せない。知識や欲望は大学教授や知識人や知事に任せて、われらは心をコントロールしよう。学んだり、駆けっこしたりは若い人の作業。50歳を迎えたら、心を管理して、喜悦感に浸り、残された時間を解脱に充てよう!年寄りには年寄りならではの実践的な時間の過ごし方がある。早く禅定に達することだ。

智慧豊かな人ははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。(スッタニパータ 七九四)

真人は「究極の清らかさにたどり着く」などと私のように自慢するものではないのだと、ブッダに戒められた。気を付けよう。
かつて私と同じ道を私よりはるかに早く、しかも苦行を6年間も行って、ブッダとなった人がいて、その人の下で、阿羅漢になった人が多勢いた時代があった。私より優れた知識を持つ者、私より勝った力を持つ者は今の世でも多勢いたが、心が私と同じように澄んでいる者はほとんどいなかった。多くの者は輪廻転生を繰り返していくことだろう(畜生・餓鬼・地獄などの悪趣に赴くだろう)。
わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、――家屋の作者をさがしもとめて――。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

2016.5.8 最近は時間を持て余し気味である。パーリ語の経典を中村先生の監修でも片山先生の訳でも、どちらでもいいから読みたいのだが、時間はあれども金はなし。一冊一万円もする経典にはとても手が届かない。スッタニパータやダンマパダを繰り返して読む毎日だ。サンユッタニカーヤも面白かったが、やはり前二者と比べると、読む頻度は落ちる。経典を読みたいなどと思っても、実際何の助けもなく読み始めたら、沙門果経など実力では読み終えられなかったろう。スマナサーラ長老の解説のあるサンガ文庫にしておいてよかったと思う。それでも出費であった。ネットで六神通まで全部読めるのなら、よかったのだけれど、読みたい部分はアップされない。仕方なく買ってしまった次第である。誰か心ある人が読み終えたパーリ語経典を贈ってくれると助かるのだが、そうはうまくいかないみたいだ。
それにしても第三禅定から第四禅定、梵我一如など瞑想していなくても達してしまったのに、このまま生きているうちに悟りまで到達できるかどうかとなると疑わしい。無我を二度経験して一来果に至った頃は、「あと一回生まれてくれば涅槃に達するのだから、生きている喜びを今味わっておかないと」などと悠長に構えていたが、無我を三度経験し、実際不還果まで来てみると(*注1)、生きているうちにどうしても悟りたいと思うのだから不思議なものだ。この辺は何というか、流れに預かって川を下り始めた人が、もう河口近くまで来て、どうしても大海原を見て終わりたいと思うのとよく似ている。先の細い螺旋状の入れ物に入れられた、というか、ジェットコースターと同じで、加速度的に終わりが近づいてくるのだけれど、――そしてブッダの保証があるのだけれど――それでも早く輪廻にとどめを刺したい、というか悟りの境地を49日間くらい味わっていたい心境なのである。おそらくこの辺の心境は仏教徒であれば皆同じだと思う。
人生の終わりは意外と早くやってくる。体は不浄なもので破れていくだけのものだから、心を磨いておきなさい。体はあっという間に老化します。人生の終わりはあっという間です。だから心を磨いておきましょう。体しか頼るものがないから、体に依存し、病気を恐れるのです。心に信用を置きましょう。死を間近に控えるとやらなかった後悔よりも、やってしまったという後悔のほうがはるかに多い。こうして輪廻の中をあの体からこの体へと体のつくり手を探して迷い続けるのだ。人生という森のどんな森で遊んでいようが、死は忘れずに忍び寄ってくる。心は成長しないまま、子育てを一段落し、社会人を一段落し、趣味に生きようとするとたちまち死が近づいてくる。体はすぐに破れてしまう。また輪廻の永遠の苦の中を、次の体を探し求めてさまよい続ける。こうした死はつらく苦しい。
それはね、「この体気に入らない」といって、簡単に替えられるものなら誰も執着しないでしょう。でも、そう簡単に捨てられないんです。他の体に転生するためには一回死ななきゃいけないものだから。どうしても今ある体を使い続けるしかないんですね。簡単に無視できないんです、体は。それを執着するなと仏教は言うでしょ。不浄なものだと思いなさいと。私は今の病気になってから2年たってほんの少し体の執着から自分を解放しました。それでもほんの少しです。今でも朝目が覚めると、元気だったころの体に戻っているような気がして、期待しちゃうんです。毎朝、期待を裏切られちゃうんです。期待しなくなったのはここ最近ですけど、それも薬がかろうじて効いているからのことなんです。今でも2年前の健康体に戻れると聞いたら、不浄観なんて捨てて、体を養生させてやろうとかと思うんですけど。でもね、体は元に戻りません。諦めというんですかね。老いとか病って本当にあるんですよ。いろいろ軽重つけたがるでしょ。癌でなきゃ幸いだとかね。でもね、どんな病でも苦しいんです。歳をとると病が二重、三重に重なってくるし、薬の量は増える一方なんです。
欲望の皮を剥いで捨てる。また生えてくる欲望の皮を剥いで捨て、ずっとこれを続ける。


注1)不還果にきていれば、怒りは完全になくなると、アビダンマにある。自分はまだ怒りがあるから、不還果に来ていない。2017.4.6