馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

年老いて

年を取ると、いったい自分は何を持っていけるのだろうかと考えることがたびたび起こります。知識、金、妻、子供、不動産、証券――何か持っていくことができるのでしょうか?
知識はどうでしょう?「知は力なり」なんて一時期流行りませんでしたか?若い頃はいろいろと本をあさって読んだものを。法律の専門家なら法律はいくら年老いても、おそらく死んでもあの世へもっていきたいと考えるでしょうし――条文ではありませんよ、法的思考そのものです――哲学の大家なら、自分の習得した哲学はいくら年をとっても、いやそれどころかあの世まで持っていけるものだと考えるかもしれません。ところで私は知識を金のように持ち歩き、それを忘れないように常に用心深く他人の前で出し入れをして、自分の得た知識が決して色あせないように、いつまでも自分の所有物であるように怠りなく管理に努めてきた80歳近くのお年寄りを知っています。
そのお年寄りは寄る年波には勝てませんでした。何兆もの微細な言語、方程式、法律用語、経済用語、哲学用語、それらをいとも容易く、自在に操りながら、一年、一年と慎重に年を重ねてきたその人は、古着から糸がほつれだすとあれよあれよといつの間にか衣類そのものがほつれてなくなってしまうように、あるいは、ダムの決壊が蟻の通るわずかばかりの穴から生じるように、彼が生涯をかけて身にまとわらせてきた膨大な知識は、一つとして死の直前まで彼のもとを離れなかったものはありませんでした。知識という鎧が剥がれると、その人に残ったのは汚らしい感情ばかりでした。汚れた意業と口業だけの人となってしまいました。
どんなに偉大な思想家でも、どんなに偉い法律家でも、知識を離さずに死後へ持っていくことはできません。それは最後には捨てなければならないし、そもそも最後に至る前に何一つ残ってはいません。と、いうわけで知識はだめです。私は実際に見ました。
私が亡くなるときも同じだろうと思います。確かな知識なんて持っていけません。床に伏したまま、「あ〜」とか「う〜」と呻き声をあげて、体のあそこが痛いとかここが痛いなどと訴えて――それもじきになくなって――かすかな思い出や感情めいたものだけが頭の中をずっとぐるぐるまわっていることでしょう。
では金はどうでしょうか?金も不動産も証券もあの世へは持っていけません。私の遺体にお金を添えていただいても、私はそれを持ってはいけないのです。
妻や子供はどうでしょうか?もうここまで考えればわかるように、妻も子供もあの世へは持っていけません。私には妻も子供もいませんが、いたとしてもあの世へは持っていけません。持っていけないのなら、残していけるのかといえば、彼らもまた私と同じでこの世を去ります。結果として何百年か先には、誰かの誰かが残るわけなんですけど、それは当の私からすると縁もゆかりもない人たちということなのです。家系図を引いてみれば自分の何代先の子か、あるいは誰かの何代先の子かということは、わかりはするでしょうけど、自分とは全くかかわりのない他人であるのは確かです。いいじゃない。人類はみな兄弟だよというかもしれません。そういう意味では人類が存続していくのはいいことなのですが、では自分はというと、それはどこにあるのでしょうか?
いったい私たちは子供がいれば、孫がいれば、なんとか自分につながりのあるものをこの世に残せるような気がするものですが、子供とか孫というのは、肉体こそ私たちのDNAを受け継ぐのでしょうが、心に関していえば、それは全く私たち以外の誰かのものであって、私たちを相続するものではなさそうです。子供を躾けることはできます。子供に環境を残してやることもできます。でも子供の心は持って生まれたもの、仏教的に言えば、輪廻転生している誰かの心なのです。
どうやら死んで残る何か心の作用というのがあって、それがいろんな世界を輪廻転生していって、人間に生まれるときに誰かの子供の心になるようです。
この心の作用というのは知識ではありませんから、生まれたときにすでに自分が今まで生きてきた世界で培った知識・経験を持っているということにはなりません。知識は常に一から積み直しです。