馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

達するということ

来月3日で51歳になる。人間50年を過ぎると、色々な境地、心境に達していて不思議ではないのに、僕は自分の周りにそういう人を見たためしがない。執着から解放されている人に出会ったことがない。去年の今頃は、僕は父の持つ、気を発して周囲を威圧したり、あるいは気配をまるっきり消してしまう能力に興味をそそられ、グーグルプラスなどでも、気配の消し方、気配の感じ方などを取り上げていたのだが、そんなことをしている間に、頭の中が白い光に包まれ多幸感に満たされるという体験を幾度もし、ついにその意味を知ってからは、父の辿り着いた「気を自在に扱う」ことなど、とんと忘れてしまっていた。
僕はいまだに執念とか、威嚇とか、人の野卑な笑い声とか、ヤジなどを軽蔑している。人によってはそういうものに強くなることを、自分の成長とする方もいるのだろうが、僕の人生はそういうものとは無関係でいるように僕を誘導してきた。だから僕は率直に語るのだが、精神修養などはしたことがないし、ある境地に達した今でも、心は絶えず揺れ動いている。何事にも動じない心というのは手に入れられなかったが、不動ということに興味はない。
野次とか威嚇とか、そういうことに強いのは父の体質だけで十分で、父はいまだにその程度の境地より遥か上のものを知らず、何を目指しているのか知れない日々を流離っている。僕は父が流離っていることを知っている。十分なところに達しえていないから、いつも父は何かを求めている。その対象は名誉であったり、金であったり、力である。母はほとんど何も求めていないが、まだ俗事に囚われている。父は、「もうこれでいい」というところに足を踏み入れたことがないのだ。僕の周りで満足しているのは、母だけだ。その母は残念ながら、僕以上に周囲のことに執着し、誰がどういう地位に就いたとか、出世したとか、落っこちたとか、そうした世事から抜けられないでいる。
僕からすれば、いまだに気を発して周囲の者の行動を止めてしまったり、学問をしてさらに知識を増やしている父の心境がしれない。もうそんなことを続けても、これで十分だという心境には到底達しえないのに、なおそんなものに興味を覚え、力を蓄え、増し続けていく父の姿が残念でならない。
ああ、人の姿を見て残念に思っていることを伝えようとして書き始めたのではないのだ。
僕はある心境に達した。それは次のごときものである。
゛静かで音がしない。寒くもなく暑くもない。時間の経過に関する感覚は一切なく、五分の事なのか未来永劫の事なのかわからないし、気に掛ける必要も感じられない。痛みもなく空腹感もなく眠気もなく、すべての地上的なものから解放され、ただ光が射しているのを感じる。射すというより差すという感じだろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。すべてが完全に充たされている状態で、食事を作る必要もなければ、掃除をする必要もない。もちろん身体は何も欲していないし、病につきものの痛みからも解放され、ただいるという感じである。ただいるのだ。何かこの世界にいるのが、目を上げるとハンガーに吊るしてある自分のシャツに淡い光が当たっているのを不思議に眺めている自分がいて、自分が見ているのに、他人ごとのような感じ。
この時個人的にはもういいや――それは投げやりなものではなく、世界が完全になっているのでもう何もする必要がないやという感じである――と思えた。
望めばこの時間がずっと続いても不思議ではなかったのだが、自分でこの時間を壊しにかかり、やがて父が部屋から出てトイレへ行き、音がし始め、また元の世界へと戻った。
世界と接触する人は大勢いる。触れたり見たり感じたり。それを色々な芸術手段によって、俺こんなもの見たよ、私こんなこと感じたのと他の人々へ語って聞かせる。それは共感を生み、創作意欲となるのだろう。ところが、ある地点に達すると、それ以上動くと世界の調和が壊れるという、不思議な感覚にとらわれる。もう創作する必要がないし、こうやって聴かせてやろうとか、こうやって読ませてやろうとか、そういう努力を必要としない地点(世界)に達することができるのだ。
自分が世界となっていて、世界が自分となっている。世界の先端に立って自分の見るもの触れるものを、人々に触れて廻ることから解放され、ただもう自分が世界そのものとなっている奇妙な感覚。自分というものから解放されてしまった感覚。自分の事なのに、他人事のような感覚。
悟りに達したときは晴れ晴れとした、大気がどこまでも青く澄み渡っていく感じで、敵も味方もみんな幸せになってしまえという多幸感を覚えたが、世界が自分となり、自分が世界となり、難しい話はさて置き、完全な調和の中にいる自分を発見した。
「もうこれで終わってもいい」という感じさえしない。始まりもなければ終わりもなく、ただずっと「私はいます。私はある」という感じだけがするのだ。いや、もうあるのかないのかすらわからないし、それはどうでもいいことだ。自分が滅し去った感じだ。
死ぬまで修行、死ぬまで俳優、死ぬまで現役、死ぬまで作家、死ぬまで歌手などと云う人がいるが、私の人生はそういう人生ではなかった。ある地点に達すると、世界や宇宙と一体となり、そこで終わるわけでもなければ、そこから始まるわけでもなく、ただそこに到達してまだ命が尽きていないという現実があるだけのことなのだ。
私はこれからも生きていくし、飲み食いはするし、眠りもするだろうが、確実に覚醒したものとしての歩みがあるだけのことである。”
ある心境に達するというのは、常にその心境に置かれていることではない。ただこの心境というのは一度達してしまえば十分で、それだけで人生の意味を十分に感じ取れ、それ以上のものがあることを知らないし、またあったとしてもそれはそれで構わないという安堵感と満足感で満たされている故に、すべて必要十分な境地であるのだ。
僕は多くの人にこの境地を、同じ心境を味わってもらいたいのだが、ためしに弟をこの境地へ誘ってみても、彼にとっては理解しがたいもののようなのだ。多くの人がここに来ることが可能でないなら、なぜ僕は書いているのだろう。自分の役割が終わったことを確認するためかもしれない。