馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

幸せってなんだっけ?

幸せってなんだっけ?—— だいぶ前に占星術細木数子氏が番組を持っている時の、タイトルであったように記憶している。包丁の使い方のままならないお母さん方を前に、細木氏が見事な包丁さばきで料理を造り出し、タッキーをはじめ、みんなで「美味しい、美味しい」と食べていたのを思い出す。

 

 

最近はユーチューブでグロービスという経営大学の講座が見られるので、時折見ているのだが、数ある講座の中で今日見た「幸福の研究」というのは面白いなと思った。

 

 

幸福の感じ方や、そもそもどういう状態を幸福と定義するのかが、各文化圏ごとにはっきり違っていて、たとえば「おしん」というドラマが評価される中東と日本が、幸福の基準にネガティブな条件(fear  of  happiness=幸福への畏れ?)が入ってくるなど、なかなか面白くて参考になった。

 

 

ついでを言わせてもらうと、グロービスでよく聞かれる「生かされている」とか「偉大なものに導かれている」というのは全部カルマ(業)の働きなのだが、これは釈尊の発見されたもので、一般の人には分からない。そういう働きがあるということに気付いただけで大したものである(私が偉そうに言っているのではなく、釈尊しか業は発見できなかったのだから、こう結論付けても宜(むべ)なるかなと思ってください)。

 

 

もともと人間に限らず、生命全体を考えて、「幸せとは何か」というのが、釈尊が修行する契機でありテーマであり、結果として釈尊は苦(一切皆苦)を発見され、そして涅槃という解脱の世界を発見されたわけで、こうした研究がどれだけ進んでも、輪廻の中にいる限り、苦からの解放はありえない。また苦行をいくらこなしても、悟りには至らない。苦行して悟ったというのなら、それは錯誤である。私が言うのではなく、釈尊がそう仰っていますよ。

 

 

残念なことに禅定の楽を味わったことがないであろうから、この分野で人間の楽や幸せ(ハピネス)を研究しても、誰でも味わえるちっぽけな幸せについてしか、わかるまい。

 

こころを研究テーマにして、こころを清浄にすることに努めるならば、禅定や滅尽定を通して、すごいものが発見されるかもしれないが、それ(禅定や涅槃)がわかるかわからないかは、その研究者の資質によって左右されるだろう。

 

 

世間では快楽は五根(眼耳鼻舌身)から得られるものと決めつけているから、五蓋(ごがい=愛欲・瞋恚・昏沈睡眠・掉挙後悔・疑の五つ)がはずれた禅定の喜悦感は研究の外に置かれたままになるだろう。世間では幸福というものは、外部から得るものと考えているが、テーラワーダ仏教では、五蓋を取り除き、心の機能を無くしていき・・・というように、失うこと、捨てることによって、幸せになるのだから、世間と釈尊の教えは真逆そのものである。

 

 

ブータンが幸福度の高い国と言っても、それは"人間的な、あまりに人間的な”尺度による判断ではなかろうか?でもブータンは住みやすいだろうなと憧れます。