馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

独白

私はある独特の境地に達することで、自分を納得させようとしてきたのかもしれない。多幸感に満たされ、晴れ晴れと心や魂が青く冴えわたる空の中で好きなだけ踊り、消えることのない白い光にもくもくと包まれた時は、(それを悟りの境地だという人がいたので)悟りに至ったと判断した。でも、本当に悟りに至ったのなら――それにしたって50歳にしてようやく辿り着いたのだから、遅いと言われればそれまでなのだけれど――放っておいても私は仏法を自分で記し、布教活動をしていたはずなのだが、私が八正道などを記さなくても、もう八正道は存在していたし、書けと言われても書けない。あらためて私が仏陀となりこの世に出る必要はなかったし、それは求められていなかった。多幸感を得てからほどなくして私は病を得て、数か月の闘病生活の中で、光となって、あきれるほどまばゆい光と神を頭と体の中に感じることで、一つの諦め(調和)を悟った。もうここまでくれば十分だと思い死を覚悟した。これ以上何を体験すればいいのだろうかと疑問に思ったし、ここで死ねたら最高だという地点に達した感はある。
わずか一年にも満たない間にこれだけのことを体験できたのだから、思い残すことはないのだけれど、私はまだ生きている。昨日順天堂大学病院へ行ってきたのだけれど、ストレートネックになってはいるが、ヘルニアだとか、脊椎狭窄だとかではなく、肩こり体操の本をもらって帰ってきた。どうやら今のところは何でもないらしい。私は今、行き詰っている。自分が哲学だとか考えていたものが、聖書や観音経を読めば、実に他愛のないものであることを知ってしまったし、また私をこれらの世界へ導いたのは仏典や聖書に耽溺したり、懸命に解釈しようと心がけたわけでもなく、奇蹟が私の身に起こったから、私は信仰の道に足を踏み入れたのである。