馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

こころを清浄にする・神通力の目覚め

我々が見ている世界はすべて、我々の心の働きによる。我々は食事をして物質を摂り入れて、それが体内で消化・分解・吸収されてエネルギー(昔、生物の授業で学んだATP?)となって身体を動かし、命を支えていると思っているが、これは心がつくりだした幻覚作用で(心はこうして物質を体内に取り入れると、食事をしたとしてエネルギーがつくりだされると勝手に解釈している)、実は実際には食事抜きでも、心さえ満足してしまえば、食べたことと同じになって、空腹にならない。

 

にわかには信じがたいでしょうが、私は自分でも経験した。心が満足すれば、実際に食事したか否かにかかわらず、食事したかのように、身体は動き続ける。空腹にもならない。ただ連続して食事抜きだと、心を騙(だま)し通せなくなるのだが・・・。

 

*心はなにか物質を摂り入れることによって、エネルギーを得た(補給した)と錯覚したいのだ。肝心なことで、かつ厄介なのは、私たちは心には勝てないという事である。食事抜きでも我々は生き続けられるのだが、心が食事抜きでは生きられないと錯覚している。食事をとらないと、多くの人の場合には、心が餓死を引き起こす。心には勝てない。修行者はこの心というはたらきを清浄させ、成長させ続ける。

 

 

心がすべての決定権者。我々の心は非常に弱くて、外界からの情報を、眼耳鼻舌身に頼っているが、心から煩悩を取り除いて、どんどん綺麗にしていくと、心は五根に頼らず、自分で直接、情報を取得し始める。今まで身体抜きには喜びが得られなかったが、心だけで喜びを得られるようになり、身体は要らなくなる。眼からの情報などを通じて、性器によって性的快楽を実現していたのが(思春期から死ぬまで普通の男女はこの段階でストップして成長がなく一生を終える)、身体抜きで心は情報を得るようになり、身体から解放されて、喜び始める。愛欲から自由になるための大きな支え手が、身体の情報に頼らないという「こころ」の成長。

 

 

心がここまで清浄にして柔軟で確固不動のものとなると、心の命じるままに、我々は第二、第三の身体を造り出せる。何体でもつくれる。いわゆる神通力と呼ばれるものである。心と身体をはっきり別物として理解し(いわゆる名色分離智)、心が主権者であり、すべてを造り出していることを理解すると、神通は起きる。心は自由になる。望めば時空関係を超えて、自由に過去に於いて何があったか、いくらでも思い出せるようになる(宿命通)。

 

 

ヴィパッサナー瞑想の初期に、身体が消える経験をして体験した十六観智のひとつの名色分離智であるが、おさらいとして、また真に実践的な教えとして再認識されるのが、神通力を使えるこの段階に於いての事である。心が自分の力を信じ始め、身体抜きで活動し始めるステージ。

 

 

 

スターウォーズの世界などでは、宇宙にある森羅万象の働きの内にフォースがあると信じて、ジェダイの騎士は、この力の修習に励むが、お釈迦様の説かれた仏教では、心の力のよって、現実に神通の力を得ることができる。西洋文明では心の存在がよくわかっていないので、フォースという力の妄信につながったのだろう。

 

 

ただ、心を解放できない一般の人に対する支配欲から、デーヴァダッタ(提婆達多)のように五力(漏尽智を除くすべての神通力)にこころが奢(おご)ってしまい、修行を完成させられず、地獄へ行くこと(破滅)にもなる道である。