馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

私の中で淘汰されるNPO法人

もう長いこと自分のできる僅かな小遣いの範囲で、いろいろなNPO法人や団体を支援してきた。

活動の趣旨に賛同して寄付することもあったし、テレビ番組などで、その人なり団体なりが取り上げられて、その姿に共鳴して寄付することもあった。

正確に数えたわけではないが、これまで40近い団体や個人に寄付してきた。

彼らのためでもあり、「与えるものは豊かになる」というブッダの発見した因果法則が本当ならいいなという気持ちで、自分のために献金(すこし大げさ)してきた。

 

コロナ禍ではじまった2020年からは、さらにピッチをあげて、困窮が叫ばれているひとり親世帯のために、フードバンクやこども食堂などにも支援の手を広げた。

が、ここにきて、お礼の手紙やメールを返してくれた団体を主体に、どこに寄付すべきか。見直しを図っている。はじめのうちは気にならなかったが、何年かこういう寄付行為をしていると、受領書や葉書で感謝を伝えてくれる団体のありがたさに気付いた。

年末調整のため(寄付金受領証が必要)というわけではないが、何のリアクションもない団体はつまらなく思えてきた。

あるいは初めの内こそメールを返してくれるが、3回、4回と寄付するうち、「この人は放っておいても援助してくれるから、こちらも忙しいので甘えちゃおう」という団体は、寄付をやめて、ほかの団体に切り替えることにしている。

その中には、蟹やうなぎなどを贈った子ども食堂もあるし、漂流社会など日本のティピカルな問題を取り上げる、大学の先生が理事を務める団体もある。

 

最初、彼らはコロナで人助けをするのに忙しく、返事を書いている暇がないのだろうと考えていたが、いろいろなところで情報を得ると、なんだかわからないうちに、勢いを失ってしまったところが多い。

 

コロナはワクチンが開発されても、終息して落ち着くまでしばらくかかると言われているし、実際は、もう新しい社会へ向かって、みな踏み出している。NPO法人や各種団体も、日々の活動の中で自らをリストラクチャリングして、どんどん対応している。

理念や活動がいかに立派でも、傲慢な姿勢がみえてくると、お金はそこに集まらなくなるみたいである。

自分が活動できるのは、支えてくれる無数の社会の支援があってこそなのだが、そこに対する感謝やお礼を忘れて、お金も物資も集まって当然という不遜な態度でいると、誰も助けてくれなくなる。

あるいは不遜であるつもりはなくても、法人を大きくするするのに夢中で、感謝が足らなかったり、それを後回しにするなど、手順を間違えても、周りの人には傲慢にしか映らないから、結果は同じである。

自分のしていることが社会的正義の実現だから、きっとうまくいくはずと思うのは早計である。理想が現実になるのなら、こんな格差社会、貧困社会が日本にできるはずがないからである。しかもお世辞にも民主主義国家で、投票の自由が保障されている社会においてである。

みんな蓋を開けてみてビックリしているのが、今日の日本の社会像ではなかろうか?

 

 

話を戻すが、困っている人たちや団体は、ほかにも腐るほどあるのだから、そこへ基軸が移って行ってしまうのは不思議ではない。すべての反貧困団体にあまねくお金や物資、人などが回っていくのではないようである。それは考えてみれば当然である。それなら皆、旗だけあげればお金が集まり、働き、活動する必要が無くなってしまうからである。

 

私は自分が寄付してきた団体で、今、米が集まらなくなったり、資金が思うように集まらず、苦戦しているところをいくつか知っている。

でも誰も、自分が出しているお金が、これらの団体を支えているとは思わないから、自分一人が手を引いても問題なかろうと思っている。そう考えている人がみな、「周りの人はわからないが、自分だけは」と手を引いてしまうと、その団体は終わりだ。団体の職員は、なぜ活動がうまくいかなくなったのか、お金が自分たちのところへ流れてこなくなったのかがわからないし、お金を出している人にもそれはわからない。誰にとっても不思議なのだが、ちゃんと原因はある。

 

ミクロの行動の結集がマクロとなってしまうのである。しかもミクロの個々は、自分たちの行動の結果がそうなることを知らない。

 

お金が回ってこなくなるのは、やはり原因がある。何に支援金やクラウドファンディングのお金が使われているか、収支明細の報告がない団体は、敬遠されてしかるべきであろう。

おどろくことに、お金が使われていることもある。NPOも人気や知名度の上に胡坐をかいていると、他のNPOにたちまちとってかわられる。

 

私が思うに、仮にお礼の報告がないような団体であっても、本当に社会の役に立っているのなら、社会がその団体を放っておくわけはないと考える。

 

そういう団体は、他のNPO法人との競争を離れて、楽に活動できるようになっていくはずである。社会に必要とされたら、社会の方で放してくれないであろう。

 

お金を儲けよう、儲けよう、貯めよう、貯めようとはせず、なにをすれば社会に必要とされるかを考えて生きたほうが、結果として楽なのかもしれない。お金というのは消えていくもので、貯めるのではなく、使って初めて役に立つからである。

 

今の日本社会は悲惨である。お金が全くない人が多数いる一方で、40歳で1億5千万円も蓄えて、なお老後が不安で、ファイナンシャルプランナーに相談する人が、ヤフーのニュースで取り上げられる。そんなに持っていて何を困っているのか?と冗談で相談しているのかと思いきや、当人は本気で困っているみたいである。

 

どうやって生きたら安心なのかわからなくなっているようである。お金がないから不安なのかと思っていたら、お金があっても不安みたいである。

 

それにしても富がこんなに偏在していて、よく社会がひっくり返らないなと不思議に思う。ヤフーのニュースは、芸能人とお金に苦慮している人たちの話ばかりになってしまった。

 

 

 

 

 

*お金については、以前「私の発見した法則」でも取り上げたが、以下に記すジャータカ物語のアナータピンディカ長者の話にコメントしたスマナサーラ長老の考えを、個人的に信じています。

 

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

金を儲けることはそれほど難しくない。人は、沢山金を貯めて金持ちの気分になりたいと夢を見るが、金持ちになるということは、決して困難な行為ではありません。少々頭を働かせて自分がおかれている状況を判断すれば、金を手に入れる方法はすぐみえて来る。

しかし、今の人にはそれも難しい。自由な発想はない。頭は固い。思考はワンパターン。知識は感情に抑えられている。自分の自由な発想で商いをしようとするのではなく、皆やっていることの真似だけをする。そうなると競争の原理が働くので、金が入らなくなる。自分がユニークな思考で商いをするならば、自分にとってのライバルはいないのです。それで安定した収入を得られるのです。

金持ちになりたいならば、才能なんか無くても良い。日雇いで文句も言わず黙々と肉体労働でもするならば、金ぐらいは入ります。その金を使わず貯めておけば金持ちなのです。

「財産があるか否か」と「恵まれているか否か」は別々な話です。飲まず食わず奴隷のように働いて億万長者になっても、人生は成功しているとは言えない。明るいとも言えない。恵まれている人こそ、楽しく、明るく、不安が無く、生きているのです。恵まれているということは、財産はその人に対して正しく機能しているという意味です。わかりやすく言えば、使わない、使えない財産があっても、意味がないということです。幸福になるどころか、命が狙われるかも知れません。

徳を積んでいない人は、財産を正しく使う気にはならない。使ってみようとしても間違った使い方をするので、全財産が無くなるのです。人は、善行為をして徳を積むことを、大事に考えた方が良い。有徳者のところに財産は勝手に揃う。使っても使っても、また揃う。布施をすることなどで徳を積む人は、他人に貢献しているのです。人の役にたつ生き方をしているのです。皆に協力しているのです。そのような人の足を引っ張ろうとは、誰も思わない。その人の財産を盗むことも、その人の商売を倒産させることも不可能です。不況のどん底にいても、有徳者には収入があるのです。

人は「どうすれば金が儲かるか」ばかり考えて悩んでいる。それは暗い思考です。金が入るどころか、ある財産も逃げてしまうのです。徳を積むことに専念すれば、財産は勝手に入ってくるものなのです。

*この物語とは、下の幸運物語です。

          

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