馬越康彦の日記

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現象はすべて因果法則どおり。これに気付く時

「修行 に 励む バラモン に、現象 が あらわ に なる。 その とき、現象 は 原因 により 生じる もの だ と 知る。 一切 の 疑い が 消え去る。

  修行 に 励む バラモン に、現象 が あらわ に なる。 その とき、 現象 の 原因 は 滅する もの だ と 知る。  一切 の 疑い が 消え去る。

  修行 に 励む バラモン に、現象 が あらわ に なる。 その とき、 魔 の 軍勢 を 打ち破り、太陽 の ごとく、 空 に 輝く」

 

アルボムッレ・スマナサーラ. 日本人が知らないブッダの話 ― お釈迦さまの生涯の意外な真相 (Kindle の位置No.1199-1203). Evolving. Kindle 版.より

 

修行を成功させて心が解脱に達する過程を、律蔵『 大 品』 のなかで、 お釈迦様がこの ように(上述のように)偈で唱えています。

 

いわゆる因縁の教えの基本になる4つの方程式は次の通り。

1.AがあるからBがある

2.Aが生まれるとBが生まれる

3.AがないときはBがない

4.AがなくなるときはBがなくなる

 

私はこの方程式をもって、ずっと「現象とは何か」と問い続けてきた。因縁によって一時的に成り立つものということは頭ではわかっているのだが、起こるべきことが起きているというのが、身体で理解できない。まったく分からないのが因縁であった。

 

それもそのはず、「因果法則の発見は阿羅漢の智慧でないと無理です」というくらい高度なもので、これがわからないから、生命は無限に輪廻転生の苦しみを繰り返しているのだと、お釈迦様はまだ当時、預流果のアーナンダ尊者に諭したそうである。

アーナンダ尊者は「因縁の理解が難しいのは本当ですが、自分は4つの方程式がわかるから理論的に理解できますよ」と言ったことに、お釈迦様は「そんなに簡単ではないよ。そういうことは軽々に言うなよ」と注意されたのである。

 

私もさっぱり分からなかった。ずっと「現象とは何?」という疑問を持って生活していたのだが、以前見たはずの、スマナサーラ長老の「必然の幸福 ~因果法則の教え」というアマゾンプライムビデオをたまたま見たら、長老はすべて腑に落ちるように語っているではないか。

 

「原因なしに起きる事象はない」ということから、途中の過程はビデオにまかせて省略するが、「すべて因果法則どおりに、起こるべきことが起きているだけです」という決定打にいたるまで食いついて見ていたのだが、「ああ、ようやくわかった」とすべて謎が解けた。

なんのためにティッシュペーパーで正確に折り紙をしてきたか、やっと身を持ってわかった。目からうろこが落ちるように、現象世界に対する疑念が消え、期待や希望や祈りというものが私から抜け落ちた。

 

この時ばかりは震えるほど喜んだ。きれいにドストライクにはまった。すごい発見だなと改めて感じた。因果法則の発見と因果法則のこころによるアプリケーション版みたいな業(カルマ)の発見は、実にお釈迦様の発見された最大の発見で、仏教はこれ抜きでは成り立たない。

 

しかるに世の中が因果法則を語るときは、「これによりてこれが生ず」とかの基本的な因縁の理解がないまま、いきなり十二縁起などの、「それ因果法則を知ったお釈迦様でなければ発見できませんよ」という高度な発見の解説に走っている。

 

もうそれは、スマナサーラ長老とかウイセッタ長老が「なんとか説明できる」という高度な智慧の次元で、スマナサーラ長老は、学者とか評論家が十二縁起を語るときは、「ことごとく失敗しています」というくらい、チョー難しい。普通はやらないものだそうである。

 

こういう因果法則の発見を踏まえて、あらためて日本仏教って結局なんだったのだろうと、ユーチューブで日本の仏教の歴史やら宗派ごとの教えの大綱などを拝見したが、阿弥陀如来を念仏すれば救われるという類のものから、唯識唯識ははじめて知った。おお!結構すごいと思ったが、因果法則の理解に欠け、単に釈尊の発見した無常などを引っ張ってきて、阿頼耶識を使って哲学構築していて、なにより悟るための実践性がない)など、いろいろ知ったが、どの教えにも因果法則が欠けている。十二縁起などを組み込んでいるものもあるが、わかってはいない。

 

因果法則抜きに悟りはあり得ない。だとしたら、因果法則抜きの教えで悟った人がいたかいないかは、論理的に考えれば答えは自明であろう。

 

大悟すること~回、小悟すること数え切れずなどという強者もいたそうだが、大悟とか小悟とか、大きい小さい悟りではないようである、因縁の発見からでてくる悟りは。