馬越康彦の日記

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瞬間、瞬間あるべき姿に決まってしまう怖さと不思議 因果法則と業(カルマ)

無数の原因が一定の条件の下で、当然の結果を出すという因果法則。それが少し理解でき、同時に過去と未来を顧慮せず、一切を現在の現象に対する気づき(サティ)に向け続けて慣れはじめると、因果法則の決まる怖さを目の当たりにする。

 

 

すべてが容赦なく現在の現象に結果して、それが因となり即座に次の結果が叩き出される。またそれが因となり、次の結果が・・・というように、一連の物事の流れが、瞬間瞬間の決定の結果の当然の連続として見えてくる。なんの偶然も、なんの期待や希望の入り込む余地なく、ある意味で無慈悲に、法則は法則として結果を出し続ける、そのさまが手に取るようにわかる。唸ってしまう。これが、因果法則!これを知るために、釈尊は4阿僧祇劫と十万劫年も輪廻転生してきたのか(それも一切智者となることを、ディーパンカラ仏の前で、誓願してからの話である)!ひたすら驚き、このすさまじい法則に凌駕される。

 

 

思うに、親鸞の教えのどこに因果法則があるのだろうか?親鸞だけでなく、唯識をはじめ、空海から今日の新興宗教まで、哲学的に面白いのはあるが、仏教の根幹をなす因果法則と業(カルマ)の話抜きで成り立っている教えのなんたる多さよ!

 

その点、19世紀のロシアの文豪であるトルストイの「人はなんで生きるか」などを読むと、トルストイが神の恩寵・奇跡としている現象を、もしカルマ(業)や因果法則として理解していたら、それは(両者の差は)わずかな差であるように見えるが、人はみな造物主の恩寵や秘跡に頼ってしまい、因果法則・業(カルマ)にたどり着くのは、ブッダだけなのだから、わずかな差異に見えて、因果法則を見破るブッダの出現の、その何とも不思議(稀有)なことよ!

 

 

原因があれば結果がある。ActionとReaction。行為には必ず結果がある。頭では簡単に理解できるのに、本当に知ることのなんと難しいことか。原因と結果は時間差を伴って生じることもある。その時間が経過するうちに、消えてしまう原因もあるし、時間経過の中で、他の諸々の諸要素が複雑に絡みこんできて、元の原因がとても変化して結果することもある。このように書くと、いろいろな原因と結果の生じるパターンが無数にあって、因果法則を知っても将来の設計に役立たないように見える。

 

因果法則を知る最大の目的は、現在、結果している現象が、期待外れでも、期待に添うものでも、期待を上回るものでもなく、条件の整ったものが当たり前に結果していることを、身体でわかることである。これがわかると、現象に安らぎを覚える。滅茶苦茶なことが起きているわけではない。起きるべきことが起きている。自分の中でもうもうと燃えていた山火事が鎮火して、もう二度と火がつくことがない。なぜならマジックのタネがわかってしまったから。ああ、そうだよねという感じ。

 

 

この心の茫漠たる山火事を消し去ること、究極の安らぎを覚えることが、因果法則を理解することの目的であり、将来予測はできません。

 

将来を予測することはできないが、業論にしたがえば、よい結果と悪い結果をもたらす行為は特定されます。よい行為にはよい結果、悪い行為には、悪い結果が結実します。これ(善因善果と悪因悪果)も、行為と結果には時間差があるので、悪人が豊かな生活を送っているように見えたり、善人がリストラに遭い、生きるのに苦しむこともあります。またスマ長老が仰るように、善行為をするのに幾つも悪行為をしてしまうこともあります。業(カルマ)はその通りに結果を出すので、良い結果も悪い結果もごちゃ混ぜに結果して、このことと、原因と結果の時間差、つまり先ほど述べた「悪人が笑って、善人が泣いている」とか、一見逆転している現象世界での結果が、人の頭には、「因果法則はない」という一律した邪見をもたらすのです。

 

本当は因果法則の一部である業(カルマ)も法則ですから、見事に法則通りに結果を出しているのです。