馬越康彦の日記

思いついたときに記事を更新

生理哲学2(生のあらゆる意味するところのもの)

何故、一向に貧富の差は無くならないのか?なぜ我々は選択の機会を与えられずに、この人種、この国、この階級(階層)へと生まれついてしまったのか?そこにどういう因果関係、必然性、そして存在の悩める意味があるのだろうか?医療の十分な手が遍く行き渡らず、幼くして命を落とさなければならない者の果てることなき惨状が続くのは何故か?もしくは続くように見えるのは何故なのか?そしてその意味は、いったいどこに説明の場を求め得るのか?どこに答えが用意されているのか?何となれば、説明なしに我々はこの不条理を前に引き下がれないからである!我々の持つ善悪、否、善悪のみならず、我々が自分たちの生きる意味のすべてを、この世へ送り出される前の段階で(おそらく六道の何処かの世界で)、既にして心と体に刷(す)り込まれてしまっているという事実は、どう解釈されるべきか?その刷り込まれてしまったものの自己解凍による自然な展開を認識することが、我々の生きる意味のすべてとなるということ、この結論は果たしてどこへと我々を導くのだろうか?どうして自分の中に刷り込まれたものの認識のみが、我々の生の意味の悟りのすべてへとつながるのであろうか?我々の生、我々の悲劇、我々の惨状、それは如何に社会が高度なものへと発展しても消え失せないであろう。否、消え失すどころかますます悲劇は避けがたいものとして、我々の過酷な現実がいやまして酷くなるのはいったい何の為なのか?この世へ送り出される者、この世から消え去る者、彼らの避けがたい存在の謎に満ちた意義は、この生という命の泉のいったいどこに探り当てるべきなのだろうか?階級の意味、それに伴う貧富の圧倒的存在の意味、それはおそらく人類と云う種の存続のためのみに、解き明かされるものでは決してあるまい。そうではなく、自分の中に刷り込まれたものの存在を知ること、すなわち悟りの境地に達することとは自己認識なのである。それはどのような境遇の人にも遍く掴み取る機会を与えらているものなのだ。現実世界における一切の幸と不幸、それらの意味は悟りを啓くことにあり、悟りを啓くこととは、ホモ・サピエンスの存在としての自己認識であり、生理を通じて世界をすべて認識する手段なのだ。我々という人間の存在、この大がかりな存在のからくりは、すべての種の生理の結果であり、帰結であり、結論であり、原因であり、Α(アルファ)であり、同時にΩ(オメガ)なのである。肉欲、邪淫、不正、殺人、詐欺、恐喝、強盗、およそありとあらゆる悪徳の存在意義は、それに対する善き徳と一体となって初めて、人間存在をより高次な存在へ高めること、すなわち進化のすべての謎の唯一の回答であり、素(もと)なのである。そうでなければどうして悪が必要だろうか!否、それと同じくどうして善が必要となるであろうか!善悪の調和と不調和のもたらすものは、生理的な動機付けを支えに、より高次な存在の世界への扉の鍵そのものである。もう目の前に扉はある。あとはそれを開けるだけなのである。そのチャンスは過去、現在、未来の誰にでも公平に与えられていたし、これからも与えられ続くであろう。人類よ、悟りを啓け!

ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ

平成26年8月10日 時を止められるのかと思っていたら、止まっていたのは私の精神のほうだった。まあ、ある意味心を空にすることには成功したわけではあるが…。