馬越康彦の日記

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生理哲学3(歴史はなぜ繰り返すのかに関する考察)

我々人類は、なぜ過去に記された本を理解できるのであろうか?あらゆる史書を通じて歴史上の人物に、共感したり反発したりできるのはなぜか?同じ人間として彼らの心情を理解できるのはなぜか?もし私が提唱するように、人間の行動がその時代の嗜好(指向)によって偏り、その偏りが極限にまで達した結果、反動する力が大きく働き、偏っていた時代指向性が解消され、一切が偏りから解放され遍在化するとしたならば、またそのときに道徳や規範が新しい時代精神に沿うように塗り替えられるとしたならば、その新しい時代精神の持ち主たちは、果たして古き時代(過去)の規範意識を共有(共感)することができる(もしくはそのような仕組みで歴史が形成されていると云える)のだろうか?私の直感のもたらす答えは残念ながらNOである。思うに規範意識とは少しずつずれていきながらも、その中核は変わらないという類のものではなく、むしろ倫理や道徳とともに、一向に変わらないと考える方が自然だ。
卑近な譬えになって恐縮であるが、我々の持つ善悪の概念は今も昔も全く変わらないことを、私は「北斗の拳」のラオウによる拳王恐怖の支配の中に見出す。なぜあの恐怖を我々は無前提に受け入れるのか?もっと違う恐怖の描かれ方をしないのはなぜか?私はそんな風に疑問に感じた。それが始まりだった。我々が恐怖の対象とするものは、いつも同じだ。我々が恐れているもの、我々が恐れている恐怖政治というのは古今東西普遍なのである(例えばヘルマンヘッセのデミアンに描かれる「フランツ・クローマー」とか雁屋 哲氏の男組にある「神竜剛次」とか「影の総理」等)。まったく同じもの(地獄・畜生道)を我々は怖れ、まったく同じもの(天国)に恋焦がれているのだ。それ故に我々は過去の人の手になる読み物を読み解き得るのである。だとするなら、善悪の意識を人間道に送られる以前に既にして刷り込まれていると考える時、もしやわれわれの善悪は毎回まったく同じように与えられ、毎回まったく同じように開花していくものと捉えられまいか?ならば私が理論的に葬り去った永劫回帰なる考えも、もしや生きているのではなかろうか?
歴史は繰り返すという。されば我々は今起きていることと全く同じ歴史の中で、遥か遠い昔、同じ宇宙の同じ時にこの同じ銀河の中で、まったく同じ生活を送っていたとはいえまいか?我々が忘却の川(レーテー)の水を飲んでこの世界へと送り込まれながら、尚過去に生きた自分の人生を心のどこかで知っているというのは、まったく同じ生を無限に繰り返していることの証左と言えまいか?たかだか100年程度の寿命の人間が、紀元前の人類の歴史に肉薄できる謎、同じような考えを抱き同じ過ちを繰り返す歴史の悲劇の謎は、善悪のぶれない人間存在が、同じことを繰り返す悲劇の時間的連続性と、一切が全く同じことの繰り返しであること(つまり永劫回帰)の二つを我々に教えていると考えては早計だろうか…。
満たされることのない知への渇望は、人生という苦しみから救われようとする本能が生じさせるものだが、悟りへとたどり着く確率は0%である。悟るということは解脱するということ、解脱するということは輪廻転生(六道輪廻)の仕組みから外れるということ、すなわち絶対幸福へとたどり着く唯一の手段なのである。解脱したいという思いが強いあまり、あらぬ方向へと意志が向かうこともある。権力が代表格である。これは極度な怖れに根差す意志である。怖いから権力を手にしたい。権力を手にして安心したい。いつの時代も個体はこの問題に直面し、選択を迫られてきた。我々は絶対では有り得ない。力を手にしても、この世界は諸行無常が支配している。それでも安心のために力を手にしたい。栄華が末代まで続くことを願う。だがそれは叶わぬ。
民族というのは精緻に観察すると、ある種の必然である。本能が必然的に人間に備わっているように、人間の血には民族という必然が流れている。したがって本能(民族)に正確に従えば、必然的に民族(同じことだが民族としての人類)はある行為をしでかす結果となる。野暮なので終いまでは言わない。また、あまりにも苛烈な人生に、個を通り越し民族の血が騒いで、救世主を待望した時代と人々が現実にあった。そこでは、次善の策という手が打たれたこともある。次のごときものである。みんなが悟りに入るのは難しいから、みんなで団結し、そして一致して願えば、みんなが逆らい得ないはずの因果と輪廻の支配から解放されるという考えである。ここに賭けてみようという人は大勢いたのだ。およそ人類は考えられるあらゆる対抗手段をとって、苛烈な人生という宿命に対して挑み続けてきた。権力を手にしてみたり、内閣総理大臣としての自分が一番優れていると誤信し、何かの世界で抜きん出た功績を築く者が出ると、その者を呼び寄せて称えたり、祝電を打ったり、国民栄誉賞を与えたりと、関与する自分の力を誇示したくてたまらなくなる。これは病である。権力発動に頓挫すると、何度でも権力の頂点への道を、何に導かれているのかという疑念も持たずに、ひたすら突き進む。時には学歴まで持ち出し、頭のすぐれた自分たちがこれほど難しい本を何千冊も読んで、ようやく権力の座に立てるのだという誤解を広く国民に植え付け、自分もまたその誤解により安心して任に当たる。繰り返すがこれは病である。悟りに至れぬ者が自分の人生に何らかの意味を見出さんとするあまり取りつかれる愚かな自己顕示欲である。およそ人間が自分たちを称え合うところに、自分たちで設けた賞に権威を授け、それを受賞することで恍惚感に浸ることなどに、何の真理もない。自分に至らないと(汝自身を知れ)真の満足は得られぬ。ちょうど良い一つの例が、社会的認知度である。大臣や学者は自分たちの名前を広く知らしめようとする。覚者は世の中から遠ざかろう、隠れようとする。前者は名前が売れないと満足しない(最低でも衆議院議員の名刺を持ち歩かないと不安でならない)。後者は自分であり続けることにひたすら悦びを覚える。