馬越康彦の日記

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生理哲学8(生理の謎)

すべての動物は生理的に完全な状態を目指している。だが、完全な状態はなかなか訪れないまま、結果だけが虚しく自然界へ散っていき積み重なっていく。どの瞬間をとらえてみても完全な生理ではない。何度か行動してみて、そのうちの結果をいくつか並べてみて、ああ、これが私の生涯の中では一番結果の良かった作品だと満足するしかない。どの動物も、いかなる時も、やっていることは一切同じ。不完全な結果の羅列と絶えざる完全な生理の追求。そこにあるのは自分の残した作品に満足するしかないという諦念。生きるということは一生を通じての生理的良好さを求める生き物の行動・嫌悪感の軌跡である。どの生命にとっても生きることは一瞬一瞬の瞬間の連続である。どの絶え間ない瞬間瞬間にも生命は生理的良好さの絶頂に立とうと挑み続ける。謎が解けたといって哲学者が口を閉ざして満足げに一生を終えることはない。
生理が良好になると生き物の思考は止まる。もしくは寝る。次に目覚めたとき、生理が引き続き良好であるという保証はまるでないのに寝てしまう。生理は何らかの欠陥を持ち続けるから我々は次の瞬間を頼みにする。この我々の行動の連綿とした結果が個人史の総体としての人類史である。本当に調子のいい時には考えていない。感じている。
人間の短い一生のうちで、生理が良好である間はわずかである。怠ることなく修行せよ。悔いを残さぬように一生を活用せよ。その一つのそして重要な生き方の指針がブッダの言葉にある。
〝大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果((よるか))のほうがすぐれている。”(ブッダの真理のことば・感興のことば「岩波文庫」P35 第13章 世の中 より)
このために生きることのほうがほかのすべての生き方より尊い。私も気づいた時には老人になっていた。ちょっと前は二十歳であったのに。このように時が過ぎるのは一瞬のことである。だから生き方についてあれやこれや悩むな。預流果にはいれば、私のように鈍い者でも、「ああ、何かが違う」と気づき、仏教とは疎遠であっても、必ずネットや他の手段で「いったい今の自分はどうなっているんだろう?」という疑問から聖者の階梯へと導かれ、自分が預流果に入ったことが自然にわかる。法曹界だの財界だの官界だの政界だの、そんなことすべてが阿呆の職業に思えるものだ。なぜなら、〝大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(預流果((よるか))のほうがすぐれている。”からである。ブッダの100%の保証つきである。まっとうな生き方をせよ!裏切られることはあっても裏切るな!観自在菩薩様を信仰せよ!
僕はもし預流果にはいらなかったら、どれだけ女を抱こうが、どれだけ金をもらおうが、国会議員になろうが、内閣総理大臣になろうが、弁護士になろうが、最高裁長官になろうが、ノーベル賞受賞者になろうが、死ぬ間際まで満足のいかない人生であったことがよくわかる。だから、金や性欲や権力へ向かうのはよせ!力(権力)への意志を捨てて、即刻聖者の流れに入りなさい!